未来を夢見て生まれた、3台のスーパーカー【日産ミッド4-Ⅱ編】
1996年のホンダNSXまで、ミッドシップの日本製スーパーカーは夢だった。70年代から脈々と続く技術とデザインの挑戦を、3台のクルマで振り返る。
【1987年 日産 MID 4-Ⅱ】「技術の日産」を象徴する、ミッドシップのプロトタイプ
1980年代、スポーツカーは、パワーに任せた最高速や奇抜さを競う時代を終え、電子制御を使ったテクノロジーの時代を迎える。
その口火を切ったのがドイツのアウディだ。彼らは72年にポルシェから技術部門の責任者として移籍したフェルディナント・ピエヒが開発を進めてきた、フルタイム4WDシステムを組み込む2ドアクーペ「アウディ・クワトロ」を80年に発表。悪路走破用と思われていた4WDを、あらゆる状況下で確実にトラクションを路面に伝えるための道具として用いる発想の転換は、世界の技術者に大きな衝撃を与えた。
82年からは、モータースポーツでグループBの規定が施行。連続する12カ月間に生産された200台をホモロゲーションの対象としたことで、各メーカーから少量生産のスペシャルモデルが次々と送り出されるようになる。
ポルシェを意識した、最新技術の数々。
その中でひと際注目を集めたのが83年のフランクフルト・ショーでポルシェが発表した「グルッペB」だ。85年に「ポルシェ959」として限定生産に移されることになるこのスポーツカーは、ケブラーなどを使用した複合樹脂のボディ、前後トルク配分可能な電子制御式フルタイム4WD、ターボラグを改善したツインターボ・エンジンなど、「最新技術のデパート」と呼ぶにふさわしい最先端のスポーツカーだった。
この流れを受け、日産自動車も市販化を想定したスポーツカーの開発に着手する。それが85年のフランクフルト・ショーで初公開されたミッドシップ4WDの2シーター・スポーツカー「MID4」である。
設計開発を行ったのは櫻井眞一郎や古平勝ら、プリンス自動車工業で日本初の本格的ミッドシップ・レーシングカーであるプリンスR380を開発した生え抜きたちだった。
シャシーは4輪マクファーソンストラットのサスペンションをもつスチールモノコック。エンジンは3ℓV型6気筒VG30ユニットのヘッドをDOHC化した新開発のVG30DEユニットをフェラーリ308やフィアットX1/9のように、車体中央にコンパクトにまとめられる横置きに搭載。そこにオーストリアのシュタイア・プフに開発を依頼したビスカスカップリングでセンターデフを制御する4WDシステムを組み合わせた。
こうしていままでの日産車文脈にはない、低くスポーティなスタイルを纏って現れた「MID4」は、雑誌の表紙を飾ったり、ミニカーが発売されるなど大反響を巻き起こす。
そしてより実現性の高い後継車として87年の東京モーターショーで発表したのが写真の「MID4-Ⅱ」だ。
開発を前に病に倒れた櫻井に代わり陣頭指揮をとったのは、初代にも関わっていた中安三貴。ここで先代の結果をもとに大幅な設計変更を加えることにした。まずエンジンはさらなるパワーを求め、インタークーラーとツインターボを装着し、最高出力を330PSへと引き上げた3ℓVG30DETTユニットを開発。その搭載方法は前後のデフをつなぐトルクチューブにリジットマウントすることで、駆動系の剛性アップや前後重量配分の改善が期待される縦置きに変更した。
サスペンションはポルシェ959のようなツインショックをもつフロント・ダブルウィッシュボーンと、リア・マルチリンクへと変更。フルタイム4WDシステムに加え、最大変位角2度の4輪操舵機構HICAS(ハイキャス)も装備している。
桑原二三雄と伊藤浩志の手による流麗なボディは、鋼板を中心にアルミ、FRP、CFRPといった新素材を組み合わせていたのも特徴だ。