建築家・安藤忠雄が語る、イサム・ノグチ像とは?──『イサム・ノグチ 発見の道』展
20世紀を代表する芸術家、イサム・ノグチの展覧会。さまざまな出会いを重ねながら晩年の石彫に至る探究の道行きが、会場全体を通して浮かび上がる。どんなアーティストであったのか。ノグチと親交のあった建築家・安藤忠雄が語った。
「厳しい、けれど優しい目でした」安藤忠雄のイサム・ノグチとの出会いは1960年代末、準備が進む大阪万博の会場だった。ノグチは丹下健三に噴水彫刻を依頼されていた。
「当時の私は建築の修業中の身。スター建築家と肩を並べて颯爽と歩くイサムさんの姿を遠巻きに眺めるばかりでしたが、その目が強く印象に残りました。言葉を交わせる間柄になったのは80年代、三宅一生さんのおかげです。『自分が最も敬愛する美学の師父』と、紹介してくれました」
ノグチは1904年ロサンゼルス生まれ。父は詩人の野口米次郎、母は作家のレオニー・ギルモア。アイデンティティの葛藤の中で自らの世界を探り続けた人生であった。晩年、拠点のひとつとした香川県牟礼のアトリエも安藤は訪ねている。ノグチは石の声を聞き「少しだけ手助けしてあげる」と語り、「フォルムと空間の美学を彫刻と呼ぶならば、日本建築は、たしかに彫刻である」と記した一文も残した。建築家の安藤とは響き合うところが多々あったに違いない。
最後に会ったのは大阪だった。「88年11月、翌年2月に予定されていた個展の最終確認の際です。会場構成を私が担当したのですが、予定の会場をイサムさんは気に入らず、たまたま案内した私の設計のビルで、ここだ!と。急遽、そのガレリア・アッカが個展会場となりました」
妥協せず、作品にふさわしい環境を求めたノグチはこの時80代半ば。「なおみなぎる緊張感に素朴な感動を覚えました。なにより私の空間が、厳しい空間感応力をもつイサムさんの目にかなったことがうれしかった」
6層吹き抜けの空間の最下層に置かれたのは、白大理石の『沈黙の歩み』。「光の下に屹立する白の造形は、そこにあったかのごとく力強く、美しかった。ご本人も満足気でした。1カ月後です、急逝の報が届いたのは……」
他にも安藤の心に響いた作品がある。未完で終わった『原爆慰霊碑』だ。 「日米の狭間に生きて深く世界を思い、人間を愛したイサムさんが若き日にどれほどの思いを込めて仕事に臨んだか、想像に難くありません。その願いは理不尽な力で砕かれましたが、その分、放たれるメッセージは鮮烈に私たちの胸に刻まれ、記憶の中で永遠の輝きを放っています。かたちのない究極のモニュメントです」
安藤は、2016年にイサム・ノグチ賞を受賞した。「誰もイサム・ノグチにはなれません。けれど、緊張感と覚悟をもって、その背中を追いかけることはできる。そうした姿勢を評価いただき、『そのまま最後まで奔り抜け!』と、エールとしていただいた賞だと思っています」
創作について、安藤は直にノグチに訊いたことがある。「アトリエで尋ねたことがありました。制作においていかにして見切りをつけるのかと。『彫刻とはかたちを生み出す作業だが、大切なのはそこに至る思考のプロセス。私の仕事に終わりはない』と。イサムさんの全てが詰まった言葉でした」