空前のスニーカーブーム。毎日のように新作が発表され、バブルと言っても過言ではない状況だ。スニーカーはもはや自分を表現する大切なツールで、ファッションを超えた文化=カルチャーに近い存在である。今回は、人気のスニーカ―ブランドから、その背景にあるストーリーとともにおすすめの定番モデルを紹介する。
人気スニーカー①ナイキ「エア ジョーダン」
NBAの歴史を代表する伝説的プレイヤー、マイケル・ジョーダンがキャリア初年度から履いたのが、ナイキのシューズの象徴的な技術である「エア」に彼の名前が付いた「エア ジョーダン 1」。当時としては画期的だったこのシューズのおかげで、試合でナイキのシューズを着用したことがなかったジョーダンと契約することができたとも言われる。現在NBAワシントン・ウィザーズ所属の八村塁が履く「エア ジョーダン 35」まで35作が製作され、時折復刻される初期のモデルまで、どれも入手が困難なほどの人気だ。
NBA好きでナイキ好きでもあるアメリカの映画監督スパイク・リーは、長編処女作『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』(85年)や代表作『ドゥ・ザ・ライト・シング』(89年)で登場人物に「エア ジョーダン」を履かせている。
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NBAが“禁じた”ナイキ「エア ジョーダン 1」は、いかにして誕生したのか?
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人気スニーカー②アディダス「スタンスミス」
スニーカーの原点と言える真っ白なスニーカーの中でも、シンプル・イズ・ベストをそのまま形にしたようなミニマルなデザインで現在も圧倒的な人気を誇るアディダス オリジナルスの「スタンスミス」。モデル名の由来は1973年の発売当時にアメリカを代表する名テニス選手だったスタン・スミスで、ギネスブックから「世界で最も売れたスニーカー」と認定されている。
この名スニーカーが登場する映画が、1976年に公開された『がんばれ!ベアーズ』だ。弱小少年野球チーム「ベアーズ」を率いるバターメイカー監督(ウォルター・マッソー)の足元は、カジュアルスタイルからジャケットを着用する時までいつも「スタンスミス」。このシューズのオールマイティさを象徴するような着こなしだ。
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世界で最も売れたスニーカー、アディダス 「スタンスミス」の誕生秘話
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人気スニーカー③オニツカタイガー「MOAL 77 NM」
次々と革新的なスポーツシューズを開発した日本発のファッションブランド、オニツカタイガー。合併を経て一度はブランドが消滅するが、国内外からの復活を望む声が起こり2002年に復活。レトロスニーカーのブームもあって名品「メキシコ 66」が海外でブレイクし、さらに映画『キル・ビル』(03年)でユマ・サーマンが「タイチ」を着用したことで人気ファッションブランドとなった。
英国王室のウィリアム王子やブルース・リー、アンディ・ウォーホル、フレディ・マーキュリーといった多くの有名人にもオニツカタイガーの靴は愛用されてきた。名優ダスティン・ホフマンも映画『クレイマー、クレイマー』(79年)で「モントリオールⅡ」を使用していて、驚くことにその後継機「MOAL 77 NM」は今でも製作されている。
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ダスティン・ホフマンが履いた、オニツカタイガーの定番スニーカー
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人気スニーカー④VANS「クラシック・スリッポン」
Netflixでこの春配信された『スケーターガール』という映画で、質素なサンダルでスケートボードをやっていたインドの貧しい村の少女が、大会で先に演技を終えた少女からペパーミントグリーンのヴァンズを借りて履くシーンがある。このようにスケートボードに欠かせないどころか、サブカルチャーのアイコンとも言えるスニーカーブランドがヴァンズだ。
ヴァンズの共同創業者ポール・ヴァン・ドーレンは、1982年に公開される予定の青春映画『初体験/リッジモンド・ハイ』用にスニーカーを提供してくれないかという依頼を受け、アッパーに白と黒のチェッカーボード柄がプリントされたスリッポンをセレクト。映画では足元がアップされるだけでなく、青い靴箱からこのシューズを取り出すシーンまで描かれ、ヴァンズの名前を一挙に拡めることに貢献した。
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VANSの名作スニーカーは、ショーン・ペンの伝説的映画が大ヒットのきっかけだった
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人気スニーカー⑤ニューバランス「ML574」
ニューバランスといえば数字を使ったモデル名が象徴的。「1000番台が私は好き」「いやいや僕は990シリーズをずっと買い続けている」と、まるで外車のモデル名を並べるようにスニーカー好きは品番で “ニューバランス愛”を力説する。まさにシューズそれぞれに付けられた品番はニューバランスでは大きな意味をもつ。
多くの有名人がニューバランスを愛用していて、ブラッド・ピットも映画『スナッチ』(00年)で「ML574」を履いている。「574」シリーズはニューバランスのアイコニックなモデルで、高い機能を備えながらも価格が1万円前後とコストパフォーマンスが高い。しかもDと2Eの2種類のウィズ(足囲)が用意され、履く人の最良のフィッティングが得られる。多くの人に愛用される理由も、そこにあるのではないだろうか。
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ニューバランスの大定番「ML574」が多くの人に愛される理由
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人気スニーカー⑥リーボック「クラシック レザー」
1988年に公開された映画『ワーキングガール』で、キャリアウーマンの主人公テスがオフィスに到着した途端にスニーカーからハイヒールに履き替えるシーンが冒頭を飾る。黒いストッキングの上に白いスポーツソックスを重ねて履いているところが80年代らしい。そのテスが履いていたのがリーボックの「クラシック レザー」だ。
80年代は、それまでのジョギングに代わってフィットネスやエアロビクスといったインドアスポーツが花開いた時期。人気女優のジェーン・フォンダが出した「ワークアウト」のビデオをきっかけにエアロビクスが女性の間で注目され、オリビア・ニュートン・ジョンが歌った『フィジカル』の大ヒットで男性までジムに通うようになった。そしてこのブームの大きな立役者になったのがシューズブランドのリーボックだ。
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リーボックの人気が急上昇したきっかけは“エアロビクス”だった
人気スニーカー⑦ ナイキ「エア フォームポジットワン」
2021年1月、世界的なコロナ禍を受け、いつものパリではなく東京の本社で行われたコム デ ギャルソン・オム プリュスのファッションショー。テーマは“DARKROOM”。「私たちはいま、闇に包まれたこの世界で、新しいものを見つけ出さなければならない」と、コレクションノートにデザイナーの川久保玲が書いている。ショーは暗闇が広がる会場にスポットライトが当てられて、ミニマルなモノトーンカラーのジャケットやコートを纏ったモデルが登場した。アメリカのコンテンポラリーアーティスト、ウィリー・コールとのコラボレーションによるハイヒールを頭上に乗せたヘッドピースが、強烈な印象を残す。そして、多くのモデルたちの足元を飾ったのはナイキの「エア フォームポジットワン」だ。
このモデルは、1997年に誕生したバスケットボールシューズ。「素材を液体にしたものを容器の中に入れ、その中に足を浸して、足の周りを覆うことができたらそうなるだろう」という、ナイキのデザイナー、エリック・アヴァールの発想から生まれたモデルだ。『ナイキ・バッシュ・コレクション』(双葉社)によれば、当初ナイキは製品化に躊躇していた。しかし、このシューズを見たNBAのスター選手、アンファニー・“ペニー”・ハーダウェイがひと目で気に入り、製品化に向かったという。だが、彼の名を冠したシグネチャーモデルはほかに存在したため、ペニーが試合でこのシューズを履いたのはプレーオフのいくつかの試合だけだった。
光沢ある鮮やかなブルーとブラックのコンビネーションが特徴的なカラーリング。アッパー全体が波紋のように立体的にデザインされている。それまでのバスケットボールシューズの常識を覆す未来的な外見に、スニーカーファンの多くが衝撃を覚えた。その後も何度か復刻モデルがリリースされているが、2014年には人気ブランドのシュプリームとコラボレーション。このモデルはアッパーをキャンバスに見立てて大胆なグラフィックが施され、発売前から注目が集まり、情報のリーク合戦まで起こったと記憶している。
【続きはこちらから】コム デ ギャルソン・オム プリュスが、ナイキの「エア フォームポジットワン」を再解釈
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人気スニーカー⑧ アディダス オリジナルス「スーパースター」
ニルヴァーナのカート・コバーンが履いたコンバースの「ジャックパーセル」やビョークが雑誌の表紙で履いたリーボック クラシックの「ポンプフューリー」など、スニーカーが本人のアイコンの1つになっているミュージシャンは数多くいる。その先鞭を付けたのが、1980年代に活躍したRUN-DMCではないだろうか。RUN-DMCは、ジョセフ・シモンズ(RUN)とダリル・マクダニエルズ(D.M.C.)、ジェイソン・ミゼル(JAM MASTER JAY)の3人からなるヒップホップグループ。83年にデビューし、翌年にリリースしたファーストアルバム『Run-D.M.C.』はヒップホップアルバムでは初のゴールデン・ディスクを獲得している。
1980年代初頭、ニューヨークのブレイクダンスを愛するBボーイとBガールたちの間では、アディダスやプーマなどのスポーツブランドのウェアやシューズが定着し始めていた。そんななかデビューしたRUN-DMCのコンセプトは「リアル」。彼らはミゼル(JAM MASTER JAY)が着ていた私服をグループの衣装とすることに決め、ストリートウエアでステージに上がった。赤のアディダスのジャージ上下に黒のハット、そして足元はアディダスの「スーパースター」という組み合わせが、当時の彼らの代表的なスタイル。86年にリリースしたサード・アルバム『Raising Hell』には「マイ・アディダス」という曲まで入っている。
『スニーカー文化論』(川村由仁夜著、日本経済新聞出版社)には、マジソン・スクエアガーデンで行われた彼らのコンサートで3人が「君たちのアディダスを見せてくれ!!」と叫ぶと、会場を埋め尽くした2万人のファンが、各自履いているアディダスを空中に掲げて、大合唱になったと書かれている。会場に招かれていたアディダス本社の幹部がこれを目にして彼らと契約を結び、アディダスが新しい市場を開拓するきっかけとなったというから、RUN-DMCが果たした役割は大きい。
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アーティストが流行させたスニーカーの元祖、アディダス オリジナルス「スーパースター」の歴史
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人気スニーカー⑨ プーマ「スウェード」
1970年代のナイキ登場前、スポーツシューズ界の2大巨頭といえば間違いなくアディダスとプーマだった。その一つであるプーマの歴史は、20世紀初頭まで遡る。父が営んでいた靴工房を継いだアドルフとルドルフのダスラー兄弟は、1920年にドイツのヘルツォーゲンアウラハで「ダスラー兄弟製靴工場」を設立する。陸上競技やサッカーのスパイク製造などで順調に業績を伸ばしていくが、1948年に兄弟それぞれが独立を決意する。兄ルドルフは「ルーダ」というブランドを設立し、翌年には「プーマ」と改称、現在に至っている。
プーマのシューズを履いたスポーツ選手でいちばん有名なのは、ジャマイカのウサイン・ボルトだろう。2009年、彼が100メートルで9秒58をたたき出した時にも履いていた。ほかにもテニスのボリス・ベッカーやマルチナ・ナブラチロワ、サッカーではペレ、ヨハン・クライフ、ディエゴ・マラドーナなど、スポーツ界のレジェンドたちの多くがプーマを愛用した。
さらにプーマの特徴は、ファッション界とも密接な関係も持っていることではないだろうか。98年にはスポーツブランドとして初の試みである、人気ブランドのジル・サンダーとのコラボモデルを発表。以降もミハラ ヤスヒロ、アレキサンダー・マックイーン、ニール バレット、カール ラガーフェルドと、錚々たるブランドとのコラボレーションを行い、ファッション性の高いシューズとしても人気を集めている。
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プーマの名作スニーカー「スウェード」の歴史を辿る
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人気スニーカー⑩ コンバース「キャンバス オールスター J HI」
『スニーカー文化論』(日本経済新聞出版社)を著した川村由仁夜は、「バスケットボールほどスニーカー文化に直結しているスポーツはない」と断言する。バスケットボールが生まれたのはもちろんアメリカだ。1891年にマサチューセッツ州にあるYMCA(キリスト教青年会)の体育教官、ジェームズ・ネイスミスが、寒い冬や雨の日にも屋内でスポーツを楽しめるようにと発案したゲームがバスケットボールの起源。体育館の手すりなどに「桃を入れる籠」を2個吊り下げて、その籠にボールを入れて点数を争うというものだった。
バスケットボールシューズの歴史はコンバースにあると言っても過言ではない。創業者マーキス・ミルズ・コンバースが、コンバース・ラバー・シューカンパニーをマサチューセッツ州モールデンで設立したのは1908年。ヘンリー・フォードが「T型フォード」を発売した年と同じだ。当初はラバー製のオーバーシューズを製造していたが、こうした靴では乾季に需要が減ると、1年を通して販売できる商品を開発。1917年に初のバスケットボール専用のシューズとして誕生したのが、「オールスター」である。
ソールがラバー=ゴム製でアッパーはキャンバス地の、スポーツでの使用に耐えられる本格的なデザイン。足首部分に付いた丸い「アンクルパッチ」も実は単なるデザインではなく、プレイ中のくるぶしへの衝撃を和らげる、極めて実用的なアイデアだったという。ちなみに当初このパッチにはブランドの頭文字である「C」が入っていたが、1928年に星=スターマークが使用され、その後年代の判別に加えてデザインや表情の移り変わりが楽しめる。
この靴の普及に貢献したバスケットボール選手がいる。チャック・テイラーだ。1901年にインディアナ州で生まれ、高校や大学のバスケットボールチームで活躍した後、プロチームへ入団。その時から「オールスター」でコートに立っていたが、引退後はコンバースに入社し、元プロバスケットボール選手の経歴を生かして、各地のハイスクールやカレッジのバスケットボールチームを巡る営業ツアーを始めた。彼は若者を集めてバスケットボールの指導を行いながら、シューズの改良についてもフィードバックを行った。そんな彼の偉大な功績にコンバース社は敬意を表して、1946年から「アンクルパッチ」に彼の名前である「Chuck Taylor」の文字が入るようになった。
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コンバース オールスター=チャック・テイラーが一世紀もの間、人々に愛用され続ける理由
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人気スニーカー⑪ オニツカタイガー「メキシコ 66 SD MR」
日本でビジネス書大賞2018を受賞した『シュードッグ』(東洋経済新報社)は、ナイキ創業者フィル・ナイトの自叙伝だが、オニツカタイガーの名前がよく出てくる。
1938年にアメリカのオレゴン州で生まれたナイトは、スタンフォード大学経営大学院で学位を取得する。その時に彼が書いた論文は、「日本のカメラがドイツのカメラにしたことを、日本のスポーツシューズはドイツのスポーツシューズにできるのか?」というもの。彼は当時多くの選手が使っていたドイツ製のアディダスのシューズと、アディダスよりもずっと安価だった日本製のシューズが、性能では対等のレベルにあると見ていた。1962年、世界一周の旅に出たナイトは東京に滞在中、オニツカタイガーの本社がある神戸へ向かう。そこでオニツカタイガーの靴と工場を見たナイトは、すぐに鬼塚株式会社と靴の輸入契約を結ぶ。つまりナイキの創業は、遡ればオニツカタイガーのシューズの輸入から始まっているわけだ。このきっかけがなかったら、ナイキの登場は相当遅れていたのではないだろうか。
オニツカタイガーが創業されたのは1949年。創業からわずか10数年で、世界的なスポーツシューズと肩を並べる評価を受けるまでになったのである。ナイトが日本製のオニツカタイガーを賞賛したように、オニツカタイガーのシューズを履いた、日本と深いつながりをもつミュージシャンがいる。あのフレディ・マーキュリーだ。
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フレディ・マーキュリー愛用のシューズを彷彿とさせる、オニツカタイガー「メキシコ 66 SD MR」
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シップス エニィ×ケッズ⑫「メインセイル」
クラシックな佇まいを備えたローテクスニーカーの多くは、「バルカナイズ製法」で製作される。これは、靴底にゴムを高温接着する技術を指すが、この製法が発見されたのは偶然からだった。早くからゴム製品の加工に挑んでいたアメリカのチャールズ・グッドイヤーは、1839年、硫黄とゴムを混ぜて実験している最中に、ストーブの上にその混合物を落としたままにしてしまう。気付いて拾い上げると、ゴムは適度な弾力をもっていた。これにヒントを得て、グッドイヤーはシューズ本体とソールの間にまだ固まっていないゴムをはさみ、専用の釜に入れて高温で圧力を加えながら、硫黄などの加硫剤を加えてゴムを硬化させるという「バルカナイズ」製法を開発した。当初は自転車などのタイヤ製造工場が余ったゴム素材でシューズを製作したが、これがスニーカー製造の始まりと言われている。
アメリカで自転車やクルマのタイヤを生産していたゴムメーカー9社が合併し設立したのが、USラバーカンパニー。その会社から1916年に誕生したシューズブランドがケッズだ。ブランド名は“kids(子供)”と“ラテン語の”ped(足)”を組み合わせたもので、発売当時は相場の1/10の価格帯でシューズを発売し、「アメリカの子どもはケッズで育つ」と言われるほど人気を集めたブランドだ。
ちなみに、スニーカーとは英語の「sneak(忍び寄る)」という言葉に起源をもつとよく言われる。柔らかいゴム素材のソールなら音もなく忍び寄ることができることから、「スニーカー(sneaker)」という言葉が生まれたのだ。そして、ケッズが「スニーカーという言葉を作った」という説も喧伝されているが、それは事実ではないとするのが『スニーカーの文化史』(フィルムアート社)の著者ニコラス・スミス。同書には、イギリスで1874年に発行された小説『イン・ストレンジ・カンパニー』で、アメリカでは1893年から95年に刊行された辞書『スタンダード・ディクショナリー・オブ・ザ・イングリッシュ・ランゲージ』にすでに「スニーカー」という言葉は掲載されていると書かれている。ともあれ、ケッズは「スニーカー」という言葉を作ったわけではないかもしれないが、それをアメリカで一挙に広めたブランドであることは間違いないだろう。
誕生以来、ケッズのシューズはテニス、野球、サッカーなどのトレーニング用、あるいはスポーツという枠組みを超え、カジュアルシューズとして男性にも女性も履かれるようになり、1949年にはプロ仕様のケッズとしてプロケッズを展開した。同じころケッズと人気を二分していたのがコンバース。ニューヨークを中心にした東海岸ではケッズ、西海岸のカリフォルニアではコンバース派が人気だったことから「東のコンバース、西のケッズ」と呼ばれていた。ちなみにプロケッズの「ロイヤルプラス」の復刻バージョンは、80年代から90年代にかけてコロンビアで生産されていたモデルが終了する。そのシューズを90年代に藤原ヒロシが「ラストコロンビア」と命名したことで、マニアはこぞって買い集めた。90年代がブームのいま、再度注目されてもいいモデルかもしれない。
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スニーカーの語源とは? アメリカの老舗シューズブランド、ケッズの歴史を振り返る