極上の休日を求めて、アンコールワットの麓へ。カンボジア・アマンサラで過ごす贅沢な時間【東南アジア紀行・前編】

  • 文:倉持佑次
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本当の贅沢とは何か——。その問いを胸に、初めてAMANの扉を叩いた。これまで敬遠してきた理由は、その名が持つあまりにも高級なイメージに圧倒され、自分には縁遠い場所だと感じていたからだ。ラグジュアリーホテルの経験がない私にとって、その特別な世界観はどこか遠い話のように思えていた。しかし実際に足を踏み入れた瞬間、静かな空気と自然の調和に触れ、その先入観は音もなく崩れ去った。そこには、さりげない気配りと、土地の文化を大切にする温かなホスピタリティが広がっていた。

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アンコール遺跡群を含む世界遺産地域として知られているカンボジア・シェムリアップにあるアマンサラ。かつて1960年代に王族の迎賓館だった場所を忠実に再現し、わずか24室のスモールラグジュアリーなリゾートとして2002年に誕生した。

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静寂に包まれる王族の迎賓館で

日本からカンボジアへは直行便がない。ベトナムでの乗り継ぎを経て、シェムリアップの空へと向かう旅は、期待とともに7時間の時を刻んでいった。機内の窓からシェムリアップの街が見えてきた時、私は思わず息を呑んだ。どこまでも続く緑の大地が、夕暮れのやわらかな光に包まれている。その中を茶色い一筋の道が蛇行しながら伸び、時折赤土の空き地が不規則な模様を描いていた。かつてアンコール王朝が築いた壮大な王国は、今や静かな熱帯雨林の下に眠っている。

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空港を出ると、アマンサラの送迎車が待っていた。道路には、荷台に人を乗せたピックアップトラックやバイクがひっきりなしに行き交っている。ここシェムリアップでは、そんな光景が日常の一部として溶け込んでいる。

40分ほどで街の中心部に到着。クメール文字だけが刻まれた控えめな表札の前でクルマが止まる。ここがアマンサラか。24室だけの小さなリゾートは、賑やかな表通りからは想像もつかない場所に佇んでいた。白壁に囲まれた敷地に入ると、街の喧騒が嘘のように消えていく。夕暮れ時の斜光が、プールの水面を黄金色に染め上げていた。「これが、シアヌーク国王のゲストハウスだった場所です」。案内してくれたスタッフの声には、どこか誇らしさが滲んでいる。1960年代、独立間もないカンボジアの希望に満ちた時代。この地を訪れた要人たちは、ジャッキー・ケネディを含め、この静謐な空間で憩いのひとときを過ごしたという。

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明かりが灯されたプールサイド。ホテル内にはスパやジム、ブティックショップなども。

夜のダイニングルームは、まるで時が止まったかのような空気に包まれていた。円形の空間に置かれたテーブルには、白い布が月光のように輝いている。かつて王族専用の食事処だったこの場所で、今、モダンな解釈を加えた料理の数々が供される。カンポット産の胡椒を効かせたブラータチーズに始まり、レモングラスの香る黒鶏のコンソメスープ。メインには、ワサビレモンクリームを添えたマグロのロイン。繊細に火入れされた魚は中心がルビー色を保ち、添えられたアスパラガスとローストポテトが彩りを添えていた。最後を飾る南瓜のダンプリングまで、どの一皿にも、シェフの創意と食材への敬意が感じられた。

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伝統的なサルマンカレーと迷ったが、メインには魚料理を選んだ。白磁のような質感の器が、料理の色彩を一層引き立てる。

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夜明けのアンコールワット、千年の時を歩く

翌朝、まだ星が瞬く午前5時。アンコールワットへと向かうトゥクトゥクが、闇を切り裂くようにして走り出す。濃紺の空気を裂いて進むその音だけが、眠りについた街に響いていく。アマンサラが手配してくれた日本語が堪能な同乗のガイドは、月明かりに照らされる道すがら、この地が経験した内戦の記憶を、淡々と語ってくれた。1970年代、クメール・ルージュによって多くの文化財が破壊され、知識人たちが命を落とした暗い時代。しかし、半世紀近くの時を経て、この街は静かに、しかし確かに、再生の道を歩んでいた。

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アンコールワットをはじめとするカンボジアの遺跡を観光するためには、「アンコールパス」と呼ばれる入場券を購入する必要がある。同行者たちと現地の販売所に立ち寄った際の一コマ。

ホテルから15分ほどの道のりを経て、遺跡に辿り着く。まだ見えぬ朝を待つ空の下、巨大な遺跡のシルエットが浮かび上がってくる。観光客の少ない裏手の参道で出合ったのは、アンコールワットの知られざる表情だ。ここには人影はまばらで、私たちの足音だけが闇に溶けていく。遺跡の正面に出ると、そこにはすでに日の出を待つ大勢の観光客たちの姿があった。やがて東の空が白み始め、千年の時を経た石壁が、橙色の光を帯びていく。刻一刻と変化する光の中で、巨大な伽藍は静かにその姿を現していった。

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正面の人工池に映り込む遺跡のシルエットは、朝を迎えるアンコールワットの代表的な風景として知られる。両脇に並ぶシュロの木々と相まって、12世紀から変わらぬ荘厳な景色を作り出している。

その後訪れたタ・プローム寺院では、巨木の根が遺跡と一体となった神秘的な光景が広がっていた。かつて615人もの踊り子たちが暮らしていたという寺院は、今では自然の力強さを静かに物語る場所となっている。ガイドは「自然の力と人の営みの均衡が、ここには残されている」と言う。朝露に濡れた苔の香りを吸い込みながら、遺跡の奥へと分け入っていく。巨大なガジュマルの根は、まるで大蛇のように石壁を這い、時には寺院の屋根を突き破って天高く伸びている。石造りの回廊を歩みながら、私は自然と人工の境界が溶け合っていく様に、時の流れの不思議さを感じていた。

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19世紀に再発見されて以来、タ・プローム寺院は手つかずの状態で保存されてきた。ガジュマルなどの巨大な木々は、数百年の時をかけて石造建築と一体化。映画『トゥームレイダー』のロケ地としても知られる、アンコール遺跡群の中でも特異な存在だ。

朝の観光を終えると、アンコール遺跡の庭園内にひっそりと佇む、アマンサラのもう一つの隠れ家へ。クメール様式の伝統的な家屋は、古の王族が沐浴に使った池を臨む場所に建つ。この静謐な空間で、私たちは米麺作りを体験することになった。「私の祖母から教わった方法です」。地元のシェフが微笑みながら、しなやかな手つきで粉を捏ねる。前日からの仕込みで白玉のようなやわらかさに育った生地を、昔ながらの製麺機で細く伸ばしていく。炭火で沸かした湯で茹で上げられた麺は、日本の素麺に似た繊細な食感。蒸気の立ち上る厨房で、代々受け継がれてきた技が、今も確かに生きていた。

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古の王族が沐浴した池「スラ・スラン」を望む高床式のクメールヴィレッジハウス。アマンサラが伝統建築の様式を再現したこの建物は、地元の生活が息づく村の一角に佇む。裏庭には料理のハーブが植えられ、周囲の暮らしに溶け込んでいる。

午後はアマンサラに戻って寛ぐ。部屋には新鮮な季節のフルーツが用意されていた。大きな窓から差し込む陽光に誘われるように、ソファに身を沈める。75平米という空間は、遺跡観光の拠点として心地よいゆとりを持ち、ダークブラウンと白を基調とした落ち着いた内装が、静かな時間の流れを演出している。遺跡で汚れた靴は、スーツケースラックの下のカゴに入れておけば、いつの間にかきれいになって戻ってくる。さりげない場所に置かれた生花や、夕暮れ時に灯される照明まで、こうした細やかな心遣いに、アマンならではのホスピタリティを感じるひととき。

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滞在したスイートタイプの部屋は、大きな窓とスライドドアで中庭とつながるオープンプランデザイン。室内と屋外の境界が曖昧になるような設計が、アマンならではの空間美を感じさせる。

陽が傾き始めた頃、アマンサラのゲスト専用ボート「アマンバラ」でトンレサップ湖へ向かう。まるで海かと見紛うほどの広大な湖面が、夕陽に染まっていく。この水上集落には、実に30万人以上もの人々が暮らしているという。2時間ほどのクルーズの間、湖上に浮かぶ家々の間を縫うように進んでいく。子どもたちが小舟を巧みに操って遊ぶ姿が目に入る。観光用の大型ボートではなく、少人数だけのプライベートな空間だからこそ気づいた。ここには、湖とともに生きる人々の確かな営みがあることに。水上生活者たちの暮らしを間近で見つめているうちに、夕陽は優しい光となって湖面を照らしていた。

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水上を滑るように進む1階部分とは異なり、2階部分のデッキからは水上集落を見下ろすような視点で風景を楽しむことができる。夕陽に染まる空と湖面の広がりを、より俯瞰的に味わえる特等席だ。

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微笑む石仏と、伝統の癒しに触れて

3日目の朝は、トゥクトゥクでアンコールトムへと向かう。12世紀末のクメール王国の中心地、その南大門をくぐると、石橋の両脇に並ぶ神々の像が、悠久の時を経てなお、訪れる者を威厳をもって迎え入れる。バイヨン寺院では、至る所から微笑みかける巨大な四面仏の表情に、思わず足を止めた。朝もやの中、石に刻まれた表情の一つひとつが、まるで生きているかのようだ。タ・ケウ寺院では、ピラミッドのように積み上げられた石段の先に、かつての栄華の形が残されていた。

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アンコールトムの中心に位置するバイヨン寺院。216体の巨大な顔が刻まれた塔は、かつてジャヤヴァルマン7世の権威を象徴した。中央祠堂へと続く回廊には、当時の人々の暮らしを描いたレリーフが残され、クメール文明の最盛期を今に伝えている。

午後は、ホテルでのハーブボール作りのマスタークラスへ。カンボジア産のイエロージンジャーやレモングラスなど、細かく刻まれた香り高いハーブが用意されていた。それらを白布で包み、紐で丁寧に縛り上げると、徐々に中のハーブが染み出してくる。「この組み合わせは、代々受け継がれてきた知恵なんです」。講師の言葉に、伝統医療の奥深さを感じる。古くから伝わるこのハーブボールは、温めることで香りが広がり、心身をリラックスさせてくれるという。30分ほどの体験だったが、手元から立ち上る香りに、土地の記憶が詰まっているようだった。クメールの人々が大切に守り継いできた知恵の一端に、触れることができた気がした。

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アマンサラのスパプログラムで使用されるハーブボール。自然の恵みを活かした伝統的なセラピー用具として、古くから地域の人々の間で親しまれてきた。

その後訪れたスパでは、生まれて初めてのトリートメントに、少しの緊張と期待を胸に受付に向かう。モノトーンで統一された静謐な空間で、「テンプル・ウォーク」と名付けられたフット&レッグトリートメントが始まる。ヒマラヤンソルトとクーリングジェルによるスクラブは、疲れた足に心地よい清涼感をもたらした。熟練のセラピストによる丁寧なマッサージは、足先からふくらはぎまで、すみずみにまで行き届く。施術後は、レモングラスティーとフルーツを前に、天然ハーブの香りに包まれながら、穏やかな時間が流れていった。

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モノトーンを基調としたスパルーム。窓からのやわらかな光が深いリラックス感を演出する。

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最後の朝に見つけた、本当の贅沢とは

アマンサラ最後の朝は、7時からのヨガクラスで始まった。東の空が白み始める頃、宿泊棟の屋上に集まると、暁の空気はまだ涼しさを残している。インストラクターのしなやかな動きに導かれ、ゆっくりと身体を目覚めさせていく。時折、天を仰ぐポーズでは、青空に浮かぶ白い雲が目に入る。呼吸を整えながら、ここで過ごした日々を振り返る。高級なホテルという先入観は、いつしか消え去っていた。代わりに見えてきたのは、カンボジアの歴史に寄り添い、その文化を大切に守り続けてきた、静かな誇りだ。

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スパ同様、本格的なヨガも初体験。スローな動きとたかを括っていたのも束の間、数分後には汗だくに。

昼食は、シアヌーク国王が愛した1960年代のメルセデスベンツで、市内のレストラン「マリス」へ。白亜の建物に一歩足を踏み入れると、高い天井とグレーの石壁が、アンコール・ワット遺跡からインスピレーションを得た優雅な空間を作り出している。注文したのは、ココナッツクリームでじっくりと煮込んだビーフのサラマン。伝統的なクメール料理の復活と進化を目指す、シェフの想いが伝わってくる一皿だった。窓の外では、服屋やマーケット、コンビニが並ぶ街並みが、新しい時代の息吹を感じさせていた。

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1960年代のヴィンテージ・メルセデスベンツ。シアヌーク国王の時代に活躍した車両は、内戦後、地元の男性によって瓦礫の中から救い出され、大切に保管されてきた。今もなおその艶やかな黒のボディは、往時の優雅さを湛えている。

午後2時、チェックアウトの時が近づいている。荷物をまとめながら、窓の外を眺めると、庭の木々が陽光に映えていた。総支配人をはじめ多くのスタッフが見送りに現れ、まるで家族との別れを惜しむかのような温かな空気に包まれる。アマンサラは、シアヌーク国王の時代から半世紀以上の時を経て、今もなお新しい物語を紡ぎ続けている。本当の贅沢とは、そうして積み重ねられてきた時間の中に、自分だけの特別な一章を見つけることなのかもしれない。17時05分発のラオス行きの機内で、私は手帳に言葉を綴っていた。贅沢という言葉の意味が、少しずつ違って見えてきている——。

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土地の記憶に寄り添い、文化を大切に守りながら、訪れる人の心に深く刻まれる体験を創り出す。それこそが、アマンが追求する本物の贅沢なのかもしれない。

アマンサラ(Amansara)

住所:Road to Angkor, Siem Reap, Cambodia
客室数:24室(全室スイート)
アクセス:シェムリアップ国際空港より車で約60分
料金:1泊2名利用時 約$1,975〜(季節により変動)
https://www.aman.com/ja-jp/resorts/amansara