熟練編集者の物欲クロニクル
Vol.04
生まれて初めて英国に行ったのは1986年のこと。もちろん仕事です。ロンドンのパブリックスクールや貴族の屋敷を借りてファッション撮影をするために訪れました。日本からもっていく服のほかに、現地で商品を集めて何ページか撮影をしようという話になり、スタイリストとして仕事をお願いしたのが、アンディ・ブレイクという人です。彼は「バッファロー」というクリエイティブ集団に所属する人物でしたが、バッファローが当時、英国のファッション業界の中心的な存在だったと知るのはずっと後のことです。その撮影で、英国らしいヴィンテージスタイルを見せたいという私たちの要望に対して、アンディが取り上げたブランドのひとつが、1983年にロンドンで創業された「ハケット ロンドン」でした。当時は、まだ「ハケット」と呼ばれていました。
ニューキングスロードで出合った、ジェントルマンズショップ
撮影は市内を流れるテムズ川の川辺や、古びた建物の屋上、ロンドンタクシーなどを借りて順調に終わりました。スタイリングは伝統的なスーツやジャケットを少しだけパンクにアレンジしたもので、当時の英国のストリートを感じさせるアンディらしいものでした。数日後、撮影商品の中でもいちばん気になったハケット ロンドンのショップを見に行こうという話になり、ニューキングスロードへ向かいました。道路を挟んでショップが4軒あったと思います。英国紳士を彷彿とさせる本格派ワードローブを集めたショップ、ややカジュアルな服を集めたショップ、フォーマルウエアを中心にしたヴィンテージクロージング=古着のショップ、そして4軒目はバーバー、つまりクラシックな理髪店です。サヴィルロウに代表される、英国の正統的なスタイルが再認識されるよりずっとずっと前。ブランドの創始者ジェレミー・ハケットらしい正統派スタイルの品揃えで、インテリアも素敵でした。同行した日本人モデルのKさんは、自分の結婚式用に古着のテールコートを見付け、購入しました。物欲を刺激するような服や小物ばかりでしたが、私はなにも買いませんでした。いや、買えなかったのです。撮影用の商品が大量で、飛行機の追加料金を避けるために、個人の荷物は機内持ち込み可能な手荷物だけと決められており、自分のものを買うことは叶わなかったからです。
ようやく手にした、自分好みのジャケット
それから毎年のように仕事で英国に行くようになりましたが、ハケット ロンドンの服を初めて買ったのは1990年のことです。その頃、ハケット ロンドンは市内にいくつかのショップを構えていて、そのうちの一軒に立ち寄ったときに、自分好みのジャケットを見付けたのです。素材は厚手で張りのあるウール、2色のウィンドーペーンの格子柄。脇ポケットが斜めになったハッキングジャケットです。ショップのスタッフは全員、この柄のジャケットに白のパンツ、足元は茶スエードのチャッカブーツを履いていました。袖ボタンは4個とも「本開き」になっていて、「これは注文服に多いディテールです」と説明され、「HACKETT」の織りネームが内ポケットの裏側に付いているのは、「英国紳士はブランドを見せびらかすことはしないから」と紳士道を説かれると、このジャケットを買わずにはいられないのが服好きのサガです。試着をお願いすると窮屈なくらいのサイズを着せられ、「このサイズが最適」と。なんとか1サイズ上を頼み込んで出してもらい、着用すると「それでは大きい」と一歩も譲らないような状況です。80年代のソフトスーツの流行もあってか、当時はまだまだゆったりとジャケットを着ることが多かった時代です。こんなキツいジャケットは着られないと、すぐにそのショップを出て、ジャーミンストリートにある別のハケット ロンドンまで足を延ばし、店に入るなり、1サイズ上のジャケットをお願いし、試着もせずに商品を包んでもらいました。それが、私がもっているハケット ロンドンのハッキングジャケットです。
仕立て直してでも着るのが、英国の流儀。
しかし、日本に戻って着てみると、このジャケット、どこか違う。最初に薦められたサイズの方がよかったのでは、という疑念が頭をもたげるようになりました。数年経って、イタリアで仕立てたスーツを多く知るようになると、あのジャケットで窮屈と感じたのは脇の「かま」が上がっていたからで、フィットしていた証しであることもわかりました。着丈のバランス、細い袖幅などは、いまでも通用するようなバランスだったと記憶しています。それを私の浅はかな判断で、少しだけ“大きめ”を買ってしまったのです。このジャケットを見るたびに後悔の念に駆られます。「上着は1サイズ小さく見えるくらいのサイズを選ぶ。それがお洒落の秘訣」という、イタリアのファッション評論家の記事を読んだことがあります。本当にそうです。数年前、日本でジェレミー・ハケット氏にお会いした時に、インタビューのついでにその話を彼にしました。すると「そのジャケット、今度ショップにもっておいでよ」と彼。職人仕立てのスーツを何度も仕立て直して着続けることも英国紳士の流儀であり、英国スタイルの真髄です。今度、英国に行く機会があれば、ぜひジャケットを持参したいと密かに考えています。