幕末から開拓へと激動の時を迎えた北海道で、ひとりの修験僧が湯治場を開く。人々を癒やしたいという熱い願いが役人を動かし、道路も通した。
「札幌の奥座敷」、定山渓(じょうざんけい)といえば、北海道を代表する温泉地として認知度は高い。歴史も古く、アイヌ語由来の地名と思う道民は多いが、実は深いゆかりのある僧侶からとられた地名だ。
時代は幕末。岡山県生まれの修験僧が、修行の果てに北海道へ。美泉常三(みいずみつねぞう)、のちの定山(じょうざん)だ。当時、定山渓に温泉が湧き出ていることは既に知られ、探検家の松浦武四郎が入浴した記録も残っている。しかし不便な地に人々が訪れることはできなかった。
教えを説く旅を続けていた定山は、小樽を経てこの温泉にたどり着く。彼は「道を通し誰もが自由に利用可能にすること」を考えた。小樽でも湯治場を開いていた定山は、よりよい温泉地を開き、開拓民や屯田兵、農民漁民といった人々の病やケガを、祈祷と温泉によって救済したいと願った。
しかし幕末から明治へと世情が激変する中、温泉開発の申請と協力を仰いだ先の幕府が新政府に代わるなどで困難を極めた。明治3年(1870年)、視察に訪れた北海道開拓使長官、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)は定山の働きぶりをみて、この地を「定山渓」と名付けるが、開発はなかなか進まなかった。
進まない温泉地の開発が、ひとつの出会いで好転。
明治4年、新任となった開拓使高官の岩村通俊判官との出会いで事態は好転。着任直後に岩村判官を訪ね、温泉地開発を訴える定山の熱心さに岩村は心を動かされた。定山と温泉地を訪れると道路の開通工事を決定、定山は開発の一切を任される「湯守」に任ぜられ、計画が一気に進んでいく。
この時、定山はこの温泉地について「傷を負った鹿がここで湯浴びをしているようで、人間にも効くかもしれない」と話したという。
明治30年(1897年)、札幌の有志14人によって旅館を開業することに。当時、北海道庁長官となっていた岩村に有志が命名を依頼すると、定山との思い出から「鹿の湯」の名が付けられた。「鹿の湯寒翠閣」「鹿の湯倶楽部」と名前を変え、昭和2年(1927年)に「鹿の湯クラブ」へ。札幌や小樽からの交通手段も整い、観光客の増加と注目度が高まっていった。
その後、第2次世界大戦中は陸軍病院療養所として使用され、戦後は駐留軍に接収。また、大火災に見舞われるといった困難を乗り越え、鉄筋コンクリート造による増築やガラス張りの大浴場を建設し話題に。洗練されたサービスは評判で、東郷青児や高見順といった著名人も湯治に訪れ、藤田嗣治の贈った書が新館「花もみじ」の入り口を飾る。修験僧の熱い願いから始まった温泉地は、北海道史を物語るホテルへと受け継がれていき、いまも多くの人々を癒やしているのだ。
※Pen2021年2/15号「物語のあるホテルへ。」特集よりPen編集部が再編集した記事です。
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ホテル鹿の湯
北海道札幌市南区定山渓温泉西3-32
TEL:011-598-2311
モダン和洋室¥13,000(税込)〜、和洋室2ベッド+4.5畳¥10,500(税込)〜、和室8~10畳¥9,000(税込)〜
※1泊1人夕食付料金
アクセス:札幌市街地からクルマで約50分、JR札幌駅より無料送迎バス有(要予約)
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