戦後日本の復興と成長を国外に発信した文化のひとつに建築がある。なかでも丹下健三が発表した建築の数々は世界に大きな驚きと影響を与えた。しかしそれだけが昭和の建築ではない。いまも街に残る昭和の建築を「訪れるたびに発見があって面白い。細かいところまで凝っている」と話すのが、建築史家の倉方俊輔さんだ。倉方さんとともに昭和的建築の再活用を図るイベントを行う髙岡伸一さんを交え、ふたりに東京と大阪の昭和的建築の魅力をひも解いてもらうことにした。
髙岡 僕はもともと昭和30〜40年代のオフィスビルや商業建築、旧電々公社の建築などに興味がありました。それらの建築は20世紀の近代建築が目指した合理的なモダニズムを下敷きにしながら、それを声高に謳わず、人に媚びず、ただそこに立っている。それに魅かれたのがそもそものきっかけです。
倉方 髙岡さんは「ええもん」が好きですよね。しっかり仕事をして、素材を吟味し、全体をつくり込む。僕は多様性にこだわりたいので、モダニズムが実は単一の表現でないことに魅力を感じます。「国際」という言葉が輝いた時代だから、世界の最先端の建築に触発されて選択肢も広がっていった。各々が憧れを吸収し、時に誤読しながら、多様性が花開いた面白さが、昭和の建築にあります。まずはそのひとつとして「新東京ビルヂング」などの、有楽町駅周辺のビルを挙げたい。
髙岡 大阪でいうと御堂筋沿いのビルがそれに当たりますね。
倉方 有名建築家を起用せずとも、それぞれのビルがファサードや素材表現で個性をもっています。この頃はエレベーターで移動するだけでなく、2〜3階までは階段で移動する時代。オフィスワーカーの心理まで考え、ロビーなどの共用空間が意匠性と統一性をもって人間に語る建築です。
髙岡 一方で、最も昭和的な建築家を挙げるとすると村野藤吾でしょうか。昭和の初めに独立し、昭和の終わりに亡くなるまで活動を続けました。高度経済成長期の日本の建築は、工業化と職人の手仕事がバランスよく共存した時代です。まさに村野の仕事はそれを代表するもの。西日本の工業都市には村野が起用された文化施設が多い。大衆の気持ちを捉え、街の誇りになる建築をつくった人物です。
倉方 昭和は建築家と実業家が結びついた時代でもありますね。最大の存在は堤義明でしょうか。西武グループでは「プリンスホテル」が丹下や黒川紀章らの建築家を起用します。それとは対称的に何百室もの客室と大宴会場をもつ「グランドプリンスホテル新高輪」では、ディテールにこだわる村野を起用し、無数のバルコニーで都会にリゾートホテルをつくり出した。バルコニーも数が多いから、特注品でも工場で大量生産ができる。巨大さを逆手に取って、工業製品と手仕事が矛盾しないホテルの実現も昭和的です。
髙岡 僕は建築を勉強するまで、このホテルは芸能人の結婚式場としてしか知りませんでした。
倉方 芸能人が結婚の記者会見を開き、テレビ番組の収録が行われる。飛天という宴会場の名も、井上靖の命名というのが時代を感じさせます。
髙岡 さらに昭和を引っ張った企業のひとつが新聞社でしょうか。しかしそれらの建築はほとんど建て替えられてしまいました。
倉方 建築家だと吉田五十八も見逃せません。政治家の自邸を設計し、阪急と東急の両電鉄の私設美術館を設計するなど、今回のテーマに欠かせない人物。大きな仕事を引き受け、誰もが日本的だと思うモチーフを巧みに操って勝負する。たとえば「リーガロイヤルホテル」は大阪を意識してか、平安文化を感じさせるものです。和風を削ぎながらモダンにしつつ、豊穣な表情をもつ。美学と大衆性を両立する仕事です。メディアも電鉄もホテルも、昭和はマスに応えることが重要でした。昭和にはそれを引き受けられる人物がいました。