21世紀は新たな哲学が求められる時代なのかも知れません。1980年生まれのドイツの若き哲学者、マルクス・ガブリエルの著書『なぜ世界は存在しないのか』が世界的な話題となり、日本でも翻訳されるなど、最近は、ちょっとした哲学ブームが起きています。昔から思想書が話題となる時は、その時代が大きな転換点に直面している時だといわれます。実際、コンサルティング会社「ユーラシア・グループ」の創立者でアメリカの政治学者であるイアン・ブレマーは、世界の状況は地政学的リスクにおいて、2019年はここ数十年間で最悪だと語っています。こうした時代に、古今東西の文学者、思想家、科学者たちが残した名文の中から言葉を選び出し、1年366日に一文ずつを配した本が、岩波文庫別冊として出版されました。『一日一文 英知のことば』です。
この本の編者は、ハイデガー研究で知られる哲学者の木田元。選ばれた言葉は、木田が20世紀哲学が専門なだけに、近現代思想の核となるような章句が多く選択されています。一方で文学など他の領域にも目配りが効いた多彩なセレクションとなっていて、その章句は、現実を読み解くキーワードを孕んでいます。たとえば、3月18日はドイツの精神分析学者で社会学者のエーリッヒ・フロムの著書『正気の社会』の一節です。それはまるで人工知能、AIが問題となっている現代を照射しているようです。
「十九世紀においては神が死んだことが問題だったが、二十世紀では人間が死んだことが問題なのだ。十九世紀において、非人間性とは残忍という意味だったが、二十世紀では、非人間性は精神分裂病的な自己疎外を意味する。人間が奴隷になることが、過去の危険だった。未来の危険は、人間がロボットとなるかもしれないことである。たしかにロボットは反逆しない。しかし人間の本性を与えられていると、ロボットは生きられず、正気ではいられない。」(『正気の社会』より)
木田は岩波書店からこの本の企画を提案されたときの心境を、「敗戦後の荒涼たる日々に、放浪の旅の途上、どこかで拾った文芸雑誌の切れ端にすがりつくように読みふけり、心の渇きを癒した覚えのある私は、この提案に心から賛同」したと、と本書冒頭の「はじめに」の中で語っています。
この文庫本のどの章句も、新鮮な疑問を読者に投げかけることで、新たな思考が発動するように編集されています。断片的な情報が乱舞する慌ただしい毎日を生きる中で、一瞬でも本当の思考をするために、手元に置いておきたい羅針盤のような一冊ではないでしょうか。