巨匠・スコセッシの『アイリッシュマン』は、最先端技術で現在を更新する“新たな映画”だ。

  • 文:小島秀夫
Share:

小島監督と考える映像作品の未来形

文:小島秀夫
プロフィール:ゲームクリエイター。映画的手法を取り入れた作品づくりの評価が高く、2006年には全米プロデューサー組合による「世界で最も革新的なクリエイター50人」にも選出されるなど、世界的にカリスマ的人気を誇る。

巨匠・スコセッシの『アイリッシュマン』は、最先端技術で現在を更新する“新たな映画”だ。


これからのエンタテインメント、とりわけデジタル技術と共存するエンタメは、今後5年以内に確実に変化する。

キーワードはストリーミングであり、AIであり、ARである。リュミエール兄弟の発明以来、映画は映画館で観るものだった。やがてTVが登場し、映画は家庭でも観られるようになり、さらにビデオやDVDのようなパッケージの誕生、PCやスマートフォン、タブレットなどで映像鑑賞は時と場所の制約から自由になった。この状況を現出させたのは、主にNetflixやAmazonビデオなどの配信(ストリーミング)事業の台頭によるものだ。その変化は、視聴者の環境だけでなく、クリエイターをも呑み込んでいく。それはかつてない大きなものになるだろう。

エンタメを創造するあらゆる才能、技術、資本は、ストリーミングをキーワードに再編成・再創造されるのだ。その状況・変化をさまざまな角度から検証していく。

アル・パチーノとロバート・デ・ニーロが、若い俳優のスタントを使うことなくCGによる「ディエイジング」で若き頃の姿を見せる。映像史は確実に変わった。

映画館で上映されない作品は映画なのか? この問いを突き付けたのが、アルフォンス・キュアロンの『ROMA/ローマ』だった。Netflixオリジナル作品で劇場公開されていないため、2018年のカンヌ国際映画祭では「映画」としては認知されなかった。その一方で、ベネチア国際映画祭で金獅子賞を、米アカデミー賞では監督賞を含む3部門で受賞を果たした。製作の資本と流通の形態で「映画」が定義できるのか。『ROMA/ローマ』を巡る各映画賞の姿勢はその問題をあらわにしたが、それだけではない。

現在のハリウッドでは作品の大作化・シリーズ化が主流となっており、マーケティング主導で、作家性のある企画は通りにくくなっている。救世主となったのが、Netflixのような配信事業者だった。彼らは2017年には、『パラサイト』のポン・ジュノによる『okja/オクジャ』や、『マリッジ・ストーリー』のノア・バームバックの『マイヤーウィッツ家の人々』なども手がけている。

だが『ROMA/ローマ』は“ストリーミング革命”のさきがけでしかなかった。初出こそ配信だったが、劇場公開され、旧来の「映画」の興行を踏襲した。何よりも大スクリーンで鑑賞することを前提に設計された映画であり、過去のメキシコの街を精緻に描写するモノクロの映像、人物を捉えて縦横無尽に移動するカメラ、水面に映る飛行機の軌跡などは、小さな画面では堪能できない。本当の変革が始まったのは、2019年だった。先ごろ発表された米アカデミー賞では、『マリッジ・ストーリー』『2人のローマ教皇』をはじめとして、複数のNetflix作品も受賞作に名を連ねている。

なかでも革命の中心であり、現在の「映画」の最先端にあるのが、『アイリッシュマン』である。ノミネート数は11部門で最多となった『ジョーカー』に次いで2番目の10部門だ。創造したのは、マーティン・スコセッシ。私たちに映画のおもしろさ、豊かさ、可能性を教えてくれた巨匠である。溝口健二の『雨月物語』を始め、東西の古い名作の修復や再公開にも尽力していることからもわかるように、映画と映画の歴史を愛し、リスペクトを捧げ、自ら映画史を更新してきたスコセッシが、新時代のマイルストーンを築いたのだ。

77歳という年齢、映画人としてのキャリア、つい先ごろはマーベル映画を「映画ではない」と発言したことなどから、スクリーンでの上映やアナログフィルム撮影に拘る“旧き善き”映画の守護神だと妄信した人たちもいただろう。しかし、そんな“誤解”を嘲笑うかのように、この映画の神は、最先端の方法と技術で新たな傑作を創造した。

『アイリッシュマン』とNetflixは、ハリウッドのスタジオがギブアップした製作コストの負担と、興行では嫌われる209分という長尺作品を成立させただけではなく、映画を蘇らせ、その可能性を拓いたのだ。


最先端を取り入れ、アナログとデジタルの対立さえも軽々と飛び越えた。

特筆すべきは、スコセッシのリクエストに応えてILMが開発したFLUXと呼ばれるシステムによって、ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシらの名優を若返らせた(ディエイジング)ことだ。この最先端の技術によって、ひとりの人物の人生をひとりの俳優が、年齢にとらわれずに演じることが可能になった。

『ダンケルク』や『フォードvsフェラーリ』などで、実物を使ってスペクタクルなシーンを撮る手法がリアルだと礼賛され、デジタル技術の否定ともとれるような傾向があるが、それだけでは一面的な過去の映画へのノスタルジーで終わってしまう危険がある。『アイリッシュマン』は、そんなアナログとデジタルの対立を軽やかに飛び越えてしまう。

冒頭で、カメラは病棟の内部をゆっくりと移動し、車椅子の老人に辿り着く。語りはじめるのは80歳を超えたフランク・シーラン。演じるデ・ニーロはアナログな特殊メイクを施されている。語りに沿って、1970年代が回想され、さらに入れ子状に回想された1950年代のシーランの姿が描かれる。それらは、デジタルでディエイジングされたデ・ニーロだ。この導入部で、スコセッシはアナログとデジタルの共存、あるいは映画における技術の変遷・歴史を描いてみせた。ここに、映画の最先端がある。

過去をフィルムに記録して保存し、再生して楽しむのがこれまでの映画なのだとしたら、スコセッシはその先を実現しようとしたのだ。ディエイジング技術によって、現在を更新する。過ぎ去って固定された虚像(フィクション)を繰り返し観るだけでなく、永遠に現在が残り続けるような映画(フィクション)を、発明しようとしたと言ってもいいだろう。人の記憶にある過去は、固定されているわけではなく、その人の中で常に更新され、揺らいでいるはずだ。『アイリッシュマン』の語りが、いくつもの時間軸を往還し、さまざまな年代のシーラン=デ・ニーロを描く構造になっていて、それを可能にしているのも、ディエイジングの技術のおかげだろう。

「(映画創りは)戦場へ行って戦うのと同じだ。映画を制作する度に私は何かを学ぶ」

スコセッシは『アイリッシュマン』のメイキングでそう語った。この巨匠は、貪欲に最先端を吸収している。『アイリッシュマン』とスコセッシの成功は、今後のエンタテインメントの流れを確実に変え、そこに新たな可能性を書き加えたのだ。


Netflix映画『アイリッシュマン』独占配信中
監督/マーティン・スコセッシ
出演/ロバート・デ・ニーロ、ジョー・ペシ、アル・パチーノほか
2019年
www.netflix.com/jp/title/80175798