ラースは1982年にはスイスに戻り、自身のデザインスタジオを構えました。そして1983年、初となる出版物"Die gute Form" (Good Design)を刊行しています。この本についてラースに話を聞いたところ「(最初の本は)まるで悪夢だった」と苦笑まじりに話してくれました。デザインの面では、経験不足によってコンテンツを活かしきれなかったのでしょう。また、出版当時はセールスも悪く、いきなり倒産しかけたそうです。しかし最初の失敗にめげず経験を積み重ね、これまでに600冊の本を刊行してきました。当時はまだ認知度が低かった建築家のピーター・ズントーの作品集をいち早く刊行し、ズントーが世界に活躍の場を広げるきっかけを築いたり、社会的な問題をスマートな編集とデザインで世界に提示したりと、出版活動を通じて文化の発展に大きく貢献しています。
ラースと直接話をした中で、とても印象に残っている言葉があります。「優れたビジュアルブックをつくるために最も大事な要素は?」との質問に、彼は即座に「編集」と答えてくれました。グラフィックデザイナーである彼からの言葉としては意外でしたが、真意を聞いてみると「本の仕上がりを決定するのはグラフィックデザインそれ自体ではなく、適切な編集に基づいたグラフィックデザインで、編集が整っていれば自ずとよいグラフィックデザイン、ブックデザインになる」ということでした。
彼の手がけた本を見ると、その言葉が意味しているところがよくわかります。この本は、スイスのデザイン100年間を振り返る書籍で、歴史の変遷とデザインの変化を包括的にまとめた、スイスデザイン史の集大成です。グラフィックデザインとプロダクトデザインを分冊にして、膨大で多様なコンテンツを巧みにまとめ上げた本書は、単なるビジュアルブックにとどまりません。学術的研究に裏付けられた論考は、本に収録されているコンテンツへの説得力を付加し、グラフィックデザインとプロダクトデザイン、異なった変遷をたどってきたデザイン史が相互に補完しあうことで、総合的なデザインの歴史が見えるような構造になっています。まさに優れた編集が基礎にあることが、本書のクオリティーを創出したのでしょう。この書籍は現代にはもちろん、10年後、20年後といった時間の試練にも耐え、後世でも意義ある書物として引き継がれていくのが想像できます。
誰もが比較的簡単に本がつくれるプラットフォームが整った今日、各刊行物の発行部数は少なくてもアートブックの刊行数自体はおそらく増えています。その中でも、本当に書物として残す価値をもち、長い時間の経過を耐えうるメディアとして機能するのは、きっとラースが言っていた「優れた編集が基礎にある書籍」なのではないでしょうか。多様なメディアが発達した今日、情報に物質性をもたせたアートブックの価値と意義がラースの考えるブックデザイン論から垣間見えます。
ラース・ミュラーのスタジオ ©Lars Müller Publishers