デイヴィッド・バーンによるブロードウェイショーの興奮と感動を記録した映画『アメリカン・ユートピア』が、日本の観客にも同様の興奮と感動を引きおこしている。SNSやネット上の一部の感想を見るかぎり、それは絶賛に近いものだと言っていい。
そういった反応のなかには、バーンのことも、ましてや彼がフロントマンを務めたトーキング・ヘッズのことも知らないという、比較的若い世代のものがまじっている。彼らさえ惹きつける『アメリカン・ユートピア』の魅力とは、そもそもどのような点にあるのか。
『アメリカン・ユートピア』はきわめてコンセプチュアルに構成されたステージだ。舞台上のバーンと、彼を取りまく11人のバンドメンバーたちは、揃いのミディアム・グレーのスーツに身を包み、歌と演奏を披露しながら、統率のとれた群舞をくり広げる。
通常のセットにあるような、楽器からうねうねと伸びるコード、その先につながれたアンプ、でんと構えるドラムセットは、ここには何ひとつ見当たらない。特殊なハーネスを用いることで、ドラムもキーボードもぴたりと体に装着され、それが彼らの自在な動きを可能にした。余計なもののない簡素な空間を、かぎりなく簡素なスタイルで駆けめぐる、ミニマリズムを基調としたそのステージには、さながらパフォーマンスアートを観るような視覚的快楽がある。
一方で、そういったコンセプチュアルな企みには回収されない、熱く、エモーショナルな何かがこのステージにあるのも事実だ。
本作の根底にある思想とは
冒頭からラストに至るまで、バーンは筋道を立てて、特定のメッセージをくり返し発信する。
「人はなぜ面白いのだろう?」
「人間がもっとも見ているのは、他の人間である」
「人と人とのつながりを取り戻さなければならない」
彼が訴えかけるのは、ありていに言えば、人間に対する希望である。もちろんそれは、このショーが行われた2019年当時のトランプ政権に抗する意思表示でもあり、だからこそバーンはジャネール・モネイの「Hell You Talmbout」をカバーし、理不尽に命を奪われた有色人種の犠牲者の名を次々に叫ぶのだが、おそらく彼の意図はそういった政治的なものに限定されないだろう。このショーにおいて支配的なのは、より広い意味での人間性、人間味のようなものだからだ。
カメラはバーンだけでなく、舞台上のひとりひとりにさりげなく肉迫する。歌い踊る表情、パーカッションを打ち鳴らす手先、床を踏みしめる裸足の足もと、スーツ越しに滲む汗。監督のスパイク・リーは、ときに俯瞰、ときに仰角、またあるときは正面から、あるいは背後からといった具合に、あらゆる角度から彼らの生身を映しだす。二次元ではない、厚みを持つ、血の通った人間として。
独創的な振り付けは、彼らの有機的な存在感を損なわない。このショーを担当した振付師のアニー・B・パーソンは次のように話している。バーンが振り付けに関して要望したのは、「ミニマルな美しさを持ちつつ、とても温かいもの」だったと。
コンセプチュアルでありながら人間的。
『アメリカン・ユートピア』が観客にもたらす興奮と感動は、実はそのような思想から育まれている。本編を何度か観るうちに、そう気づいた。バーンが賛美し、世界を、あるいはまた人間を変革する主体として期待しているのは、ほかでもない人間自身なのだ。
その主張は根源的だからこそ、幅広く、多くの人に訴えかける。それゆえバーンやトーキング・ヘッズを知らない人たちにまで、この映画が称賛されたとしても、それはまるで驚くべきことではない。
『アメリカン・ユートピア』
監督/スパイク・リー
出演/デビッド・バーンほか
2020年 アメリカ映画 1時間47分 全国の映画館で公開中