発明の数だけ物語がある。機械式時計が挑み続けてきた歩みを語る上で欠かせない「三大複雑機構」を中心に、人類の叡智が注がれた、奥深き世界をひも解こう。
可憐な音色で時を奏でる、ミニッツリピーターの妙味。
現複雑機構の中で最もつくるのが難しいとされるのが、〝音響系〞のコンプリケーションである。特にミニッツリピーターは、現代の腕時計の技術を駆使しても、つくり手の数が限られる。当然ながらその対価も天井知らずとなる。
ミニッツリピーターとは「いつでもリクエストに応えて音で時刻を知らせる」ことができる高度な機能をもつ機械式腕時計だ。チャイム音を繰り返して時刻を伝えるゆえに、「リピーター」と呼ばれる。起動装置は伝統的にケースの横にあるスライダーで、その部分を引き下げた時の抵抗をバネの収縮に変換した力で、音を鳴らすのである。
2対のゴングとハンマーで、 すべての時刻を表現する。
鳴動のための装置は、通常は2対あるゴングとハンマーだ。ミニッツリピーターは、起動の瞬間の現在時刻を把握して機構に伝達し、それぞれのゴングの打鐘の回数と順序を制御する。鳴らされる回数には伝統的なルールがあり、時・15分・1分を順に、低音の単音・和音・高音の単音の順で打っていく。音の調整のためによく使われる「4時49分」を例にとると、ゴングはハ長調でいえばソの音(低音)でまず時を4回、次いでシの音(高音)とソの連続した和音で示す15分を3回、最後に残りの分数であるシの単音を4回打つ。聞えるのは「ソ・ソ・ソ・ソ、シソ・シソ・シソ、シ・シ・シ・シ」という可憐な音だ。最近では違う音階のものも増えてはいるが、これこそが機械式時計が受け継いできた、音で時刻を知らせる伝統のルールである。
現代では必要不可欠な機構とは言えないミニッツリピーターも、誕生した懐中時計の時代には、実用的な価値を有していた。貴族の寝室の枕元や劇場の桟敷(さじき)席などでは、現在のように電気による明かりが灯っているわけではなく、時を確認しようにも暗闇では針を読むことが叶わなかったからだ。
時代は移り変わっても、音で知らせる機構の風雅は、廃れることなく現代まで継承され、その音は洗練されていった。複雑機構という機械仕掛けではあるが、要となるのは音だ。つまりは快く聴覚に伝わるものでなくてはならない。アラームとは異なり、人間の官能に寄り添う音色と音量が追求され続けてきたのである。ハンマーが叩くゴングは、言ってみれば半円の弧を描く針金のような部品にすぎない。しかしそれは、ミニッツリピーターの価値を決める、高度で高価な楽器である。時計製作のみならず、楽器製作のマイスター、耳のよい調律師、演奏者、指揮者の役割を引き受けなければ、優れたミニッツリピーターは完成しない。複雑機構の中でもとびきり難度が高く、製作できるブランドが限られるのも頷ける。
ヴァシュロン・コンスタンタンは、そのミニッツリピーターを懐中時計の時代、1810年からつくり続け、確固とした名声を保ち続けている存在だ。「パトリモニー・エクストラフラット・ミニットリピーター」の音色を聴けば、その理由を理解するだろう。澄んだ可憐な音と絶妙なリズムは、聴く者を魅了する。一方でスタイルはきわめてノーブルであり、ケース横のスライダーがなければ、極薄のドレスウォッチそのものだ。鐘の音同様、そこにはブランドの矜持と品格が漂う。
最高峰の素材として君臨する、プラチナの重み。
プラチナはいまも昔も、腕時計マテリアルの最高峰である。高級時計ブランドでは最上位のモデルだけにラインアップすることもあれば、限定モデルや記念のモデルだけに特別なプラチナモデルをリリースすることもある。最近の経済情勢の下で、投機的マネーが流れ込んだゴールドに素材としての価格では差をつけられているが、プラチナのステータスは永遠に盤石である。
プラチナには他の貴金属とははっきりと異なる優れた特性がある。まずは希少性だ。よくゴールドを「地球上に水泳プール3杯分しか存在しない」とたとえるが、プラチナはさらにその30分の1。わずか7000トンが、人類がいままで手にしたプラチナの総量だ。プラチナは、1トンの原鉱石から3gしか取り出せないのである。
産業用途もある金属ゆえ、 価値が下がりにくい
しかも精錬・冶金は、ことのほか難しい。というのもプラチナの融点はなんと約1768℃。ゴールドより700℃以上も高い。古代エジプトや南米文明での奇跡的な例外を除いて、プラチナを貴金属として扱えるようになったのは、18世紀以降の話なのである。
しかしプラチナはそれだけの困難を重ねても手に入れる価値がある、貴重な素材である。きわめて硬いにもかかわらず、しなやかに延びる。銀と違って変色することがないノーブルな白色の貴金属であり、透明なダイヤモンドとの相性も抜群だ。遅れてやってきたこの貴金属は、優れた金細工師や時計師の華麗な技を経て、王侯貴族を魅了していった。1937年に当時のエリザベス王太后が、100カラット超えのダイヤモンドをはめ込んだプラチナ王冠の制作を依頼したことは、象徴的な出来事だった。プラチナは、貴金属の頂点に位置していったのである。
一方でプラチナは、産業での用途が確立した金属素材でもある。自動車の排ガスの浄化触媒がよく知られている。主要用途であるディーゼル車の生産動向や景況などにより需要も変動するが、投機的な思惑による価格の変動は、金よりはるかに緩い。価値の下がりにくい腕時計や装飾品用の貴金属として、この永続的な安定性は望ましい。
時計の世界では、懐中時計の時代から最高級のケース素材として使われていた。ゴールドは24分率表記だから18金に含まれる純金は4分の3、75%である。残りの部分は銅や銀の割金で、これがイエローやピンクなどの発色を決める要素でもある。一方プラチナは1000 分率で表され、Pt950では95%のプラチナを含んでいる。白い輝きを尊ぶため、割金や着色に使われるのは同じ白色金属だ。ちなみにそのうちパラジウムは金よりも高く、ロジウムに至っては金の10倍近くまで高騰中。プラチナは生まれも育ちも絶対的な高級マテリアルなのである。
グランドセイコーの誕生60周年を祝う新作「初代グランドセイコーデザイン復刻モデル」では、1型がPt950製。実は60年前のデビュー時にも、通常モデルの5倍以上の価格で、ごく少量だけプラチナ製モデルが販売されていた。日本が誇る最高級腕時計の中でも最上のステータスを与えられた品の復刻は、凛とした輝きと日本的な美意識をいまに伝えている。
こちらの記事は、2020年 Pen 12/1号「腕時計と文具。」からの転載です。