“普通の時計”であることを拒み、そのフォルムに確たる意志と語るべき物語を秘めた角形の腕時計が、いまふたたび注目すべき時を迎えています。代表的な名作にフォーカスしながら、奥深いその魅力をご紹介します。
いま、角形の腕時計が注目すべき時を迎えています。このところ腕時計界の話題といえば、機械式の超絶機構であったり、勢力を増しているスマートウォッチであったりしますが、だからこそ腕時計の原点に回帰して、そのフォルムに目を向けてはいかがでしょう。そもそも長方形の腕時計は、その姿こそが魅力の源泉です。円運動をする針を収めているのに、そのバックグラウンドを角形にすることは、もう一度平面構成を練り直すことが必要です。ただ丸を四角にするだけではなく、デザインの力が欠かせません。角形の腕時計に駄作が少なく、逆に多くの傑作が知られるのは、初手からデザインフォースが求められることと無関係ではないでしょう。さっそく、その歴史からひも解いてみましょう。
20世紀初頭に迎えた、角形腕時計の黄金時代。
1900年代の初めから1930年代頃は、腕時計の黎明期にあたります。懐中時計が腕時計に入れ替わっていくまさにその時期に、角形腕時計最初の黄金時代がやってきました。懐中時計では鎖を引いた時、スムーズにポケットから滑り出てほしいので、角張っているわけにはいきません。腕時計の誕生以前には、よほどのことがない限り角形の“ウォッチ”はつくられませんでした。なめらかな丸さを尊ぶ懐中時計では考えられない角形ケースは、新時代のリストウォッチを代表する表徴でした。すなわち角形腕時計こそ、“ザ・リストウォッチ”にふさわしいものとして「腕時計最初の流行」となったのです。上写真で紹介しているロンジンやアルピナの当時の秀作には、その雰囲気が色濃く現れています。
実は、丸いものを四角くする歴史は、絵画の世界で前例があります。現代絵画では四角い「タブロー」画が当たり前ですが、それ以前は円形のトンド額縁が幅を利かせていました。さらに以前は、イエス・キリストやマリアを描く祭壇画、中世の教会の天井に描かれたフレスコ画。転換期となったのは、市民層に肖像画ブームが起きたルネサンス期のことです。偶然とはいえ、絵画も時計も、宗教の権威から離れて人々に欠かせないものになっていく過程で、そのオブジェクトは四角のフォルムを得たのです。つまりは人間の尊厳が取り戻される記憶に、自然界には存在しない四角という形が重なるのです。
アールデコの時代を牽引した、永遠の名作腕時計。
角形腕時計を語る上で、まず欠かせないのがカルティエ「タンク」の物語です。1917年に誕生し、100年の歴史を数えたまさに角形腕時計の傑作。しかもそれだけでなく、腕時計が角形であることの必然を、このモデルが一身に語ってもいるのです。それは「タンク」がアールデコの最高傑作と呼ばれることと無関係ではありません。1900年代初頭、欧米のデザイン潮流のメインストリームは「アールヌーヴォー」でした。ヌーヴォーは自然に目を向け、草や樹木、花といったモチーフを多用しました。これに対してカルティエが先導者の一人であったアールデコは、幾何学的な直線と曲線を用いた現代的な造形を志向しました。その中でカルティエは、自然界にはない方形の魅力的な腕時計の創造者となり、アールデコの頂点を極めたモデルが「タンク」なのです。「タンク」は誕生以来さまざまなバリエーションを生みますが、その原点たる古典の風格をとどめるのが「タンク ルイ カルティエ」です。完成された角形のスタイルは、100年を経て全く古びることがありません。アールデコと角形腕時計が重なる部分に咲く、永遠の珠玉作です。
1930年代、アールデコ爛熟期を代表する傑作角形時計が、ジャガー・ルクルトの「レベルソ」です。それもただ角形のフォルムをもつだけではなく、機械部分をそっくり反転して裏返しにすることができる腕時計。「ポロの競技中にも着けていられる腕時計」という英国貴族の注文に応じて誕生したものです。一見しただけではその仕組みがわかりにくいのですが、文字盤上下の溝に注目を。幾何学的に平行線を重ねたアールデコの特徴的な装飾ですが、そのエンドがケースの分離線です。「産業と芸術の融合」を目指したアールデコを地で行く、スマートな仕掛けです。そもそも「レベルソ」の誕生時、風防ガラスは腕時計のウィークポイントでした。だからこそこの反転機構は、実用性の高さについて語られる存在であったでしょう。しかし今日の高級腕時計にはきわめて硬いサファイアガラスが使われています。その現代における「レベルソ」は、純粋にそのデザインについて評価され、さらに声価を高めています。さらに「レベルソ」はガラスの進化を利するかのように、両面に独立した文字盤がある時計「レベルソ・デュオ」を誕生させました。
「レベルソ・デュオ」のふたつの文字盤には、それぞれ違う時間を設定できます。文字盤を返せば別の時間帯の現在時刻を表示する、最も直截的で体感的に優れたデュアルタイム機構と言えるでしょう。ケースが並行にスライドして反転する機構は、長方形のフォルムだからこそスマートに目に映ります。実は角形であろうとなかろうと、時計の裏表の時分針を駆動させるというのは、決して簡単なことではありません。それが可能になるのは、ジャガー・ルクルトが自社一貫生産のマニュファクチュールだからです。ジャガー・ルクルトはこの超絶技巧を秘めた角形ムーブメントを、自社で開発・製作しています。
クラシックでモダン、華麗なる角形腕時計。
パテック フィリップがつくる角形腕時計の白眉といえば、何といっても「ゴンドーロ 5124」ということになるでしょう。長方形のダイヤルと、サイドにもう一段のレイヤーを加えたホワイトゴールドのケース。世界最高峰のブランドが経験したアールデコの記憶を現代に伝える、角形時計のマスターピースです。そもそもゴンドーロのコレクションは、パテック フィリップの歴史上も重要なアールデコの傑作群からインスピレーションを得て、そのスピリットを現代によみがえらせたもの。トノー形やクッション形はありますが、丸形の時計は一切ないのです。そのコレクション中メンズモデルの花形的存在である「ゴンドーロ 5124」も、角形であることが、その出自とアイデンティティに深く関わる腕時計です。水平と垂直の直線が強調された幾何学的フォルム、高度に記号化されたクールなダイヤルデザインは、現代に生まれ変わった新しいクラシックの姿をはっきりと見せつける、華麗な角形腕時計です。
1945年にさかのぼる自社の角形時計をルーツにもつジラール・ペルゴのコレクションが「ヴィンテージ1945」です。アールデコ最高期の傑作はいま、アールデコへのオマージュを捧げるモデルとして、人気を集める存在になりました。その角形の個性は、同社の丸形だけのシリーズ「1966」と対比してみるとまた興味深く、エッジィなキャラクターが際立って見えます。角形時計だけのシリーズがデザイン、サイズ、機能のバリエーションを広げ、レディス・メンズにまたがる一大コレクションを形成した、当代きっての人気者といえるでしょう。ラインアップは、角形時計の可能性を示すショーケースとも言えるもの。ムーンフェイズやスモールセコンドが目を惹くヒストリカルなしつらえのモデルや、ダイヤづかいが華麗なレディスモデルがあります。ブランドの代名詞ともいえる「スリー・ブリッジ・トゥールビヨン」の複雑モデルも存在します。その中でも、対抗するモデルすら少ない角形クロノグラフの魅力は格別です。
21世紀に誕生した、現代の角形腕時計。
ラルフ ローレンの角形腕時計シリーズといえば、この「867 コレクション」。ブランドのフラッグシップ・ブティックがあるニューヨークのマディソン・アベニュー 867番地にちなんで命名されています。ファッション界の巨人ラルフ ローレンが腕時計に本格参入したのは、2009年のこと。その翌年、綺羅星のごとく並んだ新作の中で、ひと際目を引いたスクエア・モデルがコレクションの始まりです。その当時は27.5mm角のケースのみで登場し、3年後の32mm版リリースとともに、待ちきれない男性がいっせいに手を伸ばすことになりました。正方形の文字盤の中にアラビア数字とローマ数字を幾何学的に配置。ローマンの3と9、サイドのアラビックをセンター向きに脚を据え、正方形のバランスを強調する数字の群れも、グラフィカルな魅力を添えます。古典的なブレゲ針づかいも効いていて、モダニズムの中にクラシカルなエッセンスを加えるデザインは、4半世紀を経て再開されたアールデコのようにも見えてきます。
同じ角形のフォルムのようでも、まったく違う世界からやってきた魅力的なスクエア・ウォッチが存在します。ベル&ロスの「BR 01」は、飛行機に装備されたコックピット・クロックをデザインの源泉とする、現代が生んだ角形腕時計です。ラウンド形の文字盤を角形のケースが支持し、4本のネジがアイキャッチとなる正方形フォルムのケースは、ほかに例を見ないクールなデザイン。1992年に誕生したフランスのブランドが、ルーツとなる「BR01インストゥルメント ウォッチ」を生み出したのは2005年。航空計器に倣い、視認性と機能性を最適化したデザインコードからインスピレーションを受けた結果、数字と針は太く大きく、そしてケースは四角い形に結実します。ベル&ロスと「BR 01」は、高いデザイン能力とスイス製造の品質への信頼が世界で認められて人気が急上昇。やがてフランス空軍への納入実績も積み上げ、現在の地位にまで上り詰めていきました。「BR 01」は角形で世界をつかんだブランドの大看板であり、現代を代表する角形腕時計なのです。
腕時計が丸形であることに理由はありませんが、角形になるためには確固たる意志が必要であり、特別にデザインすることが必要です。漫然とつくることができない角形時計は、高い確率で歴史的な傑作を生んできました。それらの幾つかは、いまもブランドの看板モデルです。さらにいま腕時計ブランドでは「原点回帰」の動きが盛んであり、時代を彩った角形モデルの少なくない数がリボーンしてきました。気づきにくいかもしれませんが、角形腕時計は100年ぶりの黄金時代を迎えていると言っても過言ではないでしょう。まず角形であることを絶対の前提として、それから時計を吟味する。そんな角形腕時計選びが現実に可能で、しかも楽しい時代なのです。