長編小説から詩、エッセイまで、幅広く執筆を行って多くのファンを得ている作家、川上未映子。言葉をかさね、さまざまに表現を紡いでみせる彼女は「写真」という表現について、どのような面白みを感じているのでしょうか?
26歳の時に歌手としてデビューし、やがて小説を書き始めると2008年に『乳と卵』で芥川賞を受賞、その後も活躍を続けている川上未映子さん。さらに、2010年には映画『パンドラの匣』にてキネマ旬報新人女優賞も受賞と、作家という枠に収まらない“表現者”として注目を集める存在です。
そんな川上さんは“写真”について、「写っているものと同じくらい、写っていないものが気になる」といいます。フレームのなかに入らなかったものを想像させ、引力を感じるという“写真”。「フィクション」というキーワードでその面白みを読みときながら、小説との共通性を語ってくれました。
セルフィーは、フィクショナルな自分を表現する手段。
子どもの頃からいろんなことを不思議に思って生きてきたという川上さん。写真に対しても、「たまたまそこにいないと撮れなかった偶然が気になる」といいます。そんな風に写真を意識するようになったきっかけも、やはり子どもの頃のこと。「もちろん、その頃はデジタルカメラではなかったので、写真ってすごく一大事だったわけです。だから、基本的に人との関係を写すもの、記念写真という印象でした。その記念写真は、撮った時の現在を捉えているんだけれども、同時にそれが過去になっている。時間というもののあり方と写真の原理が、写真の不思議さに複雑に関係しているんじゃないかと思います」
川上さんご自身、著名な写真家のレンズの前に立たれた経験も数多くありますが、撮る、撮られるという関係にも“不思議”があるとか。
「“自分が撮られた写真に満足することはありえない”と、どなたかがおっしゃっていたんですが、写っているのは本当の自分ではない。でも、すべてが嘘というわけでもない。そこにいま、セルフィーという概念と行為が出てきて、面白くなりましたよね。自分で撮った写真をどんどん加工して、フィクショナルな自分をSNSでどんどん拡散する。そこには、かつてあった『嘘と本当のライン』があいまいになっていて、『両方とも自分である』という感覚が強くなっているような気がします」
フィクショナルという意味では、小説もやはりフィクションです。一方で、現実の一瞬を切り取るものだったはずの写真も、いまはどんどんフィクション性が高まっていますが、そこに小説との共通性があると、川上さんはいいます。
「写真はいま、撮ってからいくらでも加工することができます。イメージを研ぎ澄まして、どんどん自分のイメージに近づけていく。そうやって一つの形に作り上げていく素材になっているところが、小説と共通していると思います」。最近、かつて書かれた写真論を読んで、いまの写真を取り巻く状況とのギャップに感動を覚えたそうです。
「昔の方の写真論を読んでいると、本当にこの数十年で革命的な変化が起きたんだなあと感じます。たとえばロラン・バルトも、写真と肖像画を比較していたりするんですよね。写真を取り巻く環境の変化が想像もつかなかった時代の人たちが書いたものを読んでいると、わたしたちの現在もいつか、こんな風に過去のものになるんだろうな、という予感がします」
“匿名の写真”そのものが、創造性を刺激する。
写真から触発されることも「あります!」と即答された川上さん。
「たとえば、行ったことのない風景に人が写っていると、どうしてもそこに物語性を見てしまいます。その写っている人はどういう人で、それが何時頃で、どんな人が撮っているのか、気になる写真であればあるほど、写っていないものへの想像力が高まるのを感じます」
一方で、好きな写真家はという問いに、少し困った表情を浮かべる川上さん。記憶に残っているものは、“匿名の写真”が多いのだとか。
「この写真家っていうのはいないんですよ。どうしても、その作品単体で見てしまう──匿名の写真っていうんでしょうか? いまだったらSNSにどんどんアップされる、まったく関係ない国の実際に話をすることもない人が撮ったベッドのシーツのシワとか、花とか、そういう写真が印象に残りますね」
SNSで話題となった事例では、最近なら“サプール”と呼ばれる、コンゴの着飾った男性たちの写真が一気に拡散されたことが記憶に新しいところです。川上さんも、SNSで拡散される写真に刺激を受けているそうです。
「洋服が好きで、ヴィンテージショップのアカウントのものをよく見ます。ヴィンテージの洋服がアップされているんですけれど、写真の完成度が高いんですね。でもそれを実際に見に行ってみると、確かに写真で見たものがあるんだけど、現物と写真がまったく違っていて、そういうのも面白いですね」
川上さんは、そういったところにもフィクション性の高まりを感じるといいます。「よくも悪くも、それはショッキングな体験になっています。これまでなら『実物は違ったね』で終わるところが、しかしこれを着て写真に写ることを思えば、最初に写真で見た時の印象に現実味が増すんです。その洋服の真のポテンシャルが表れているんじゃないかと思ったり」
身体の一部のような意識になる、“ちゃんとしたカメラ”。
著書のなかではファッションの楽しみについて、フィクションを演じることを挙げている川上さん。写真を撮るという行為にも、そのようなフィクションの世界へ没頭する楽しみがあるのでしょうか?
「そうですね、ちょっと意識をもって撮られている方って、たくさん写真をご覧になっていると思うんですよね。ああいう写真を撮ってみたいとか、こんな作品に向かってという気持ちがあるような気がします」
そんななかで、むしろ“生々しい写真”に驚かされることもあるのだとか。
「みんなが写真にフィルターをかけたりしている時に、ときどき『えっ!?』っていうぐらいの生々しさで撮っている方がいると、結構びっくりさせられますよね。何も加工されていない写真に、逆にドキッとして。食べ物が全然おいしそうに写っていない写真とか見ると、凝視してしまいます(笑)。最近、インスタントカメラが再評価されていることもあるみたいだし、また次に行く過渡期なんじゃないかな、という予感がしています」
川上さんは、この「EOS M6」にどんな印象をもたれましたか?
「カメラには全然詳しくないんだけれど、懐かしい感じがしますね。デジタルカメラが極まって、どれだけカメラらしさみたいなものを削ぎ落とすかってところがありましたよね。 でも、なにかやっと、ちょうど両方のよさを凝縮させた形になったなという印象を受けました」
クラシックなスタイルの洋服が好きという川上さんらしい評。手に取ってみた感触も聞いてみました。
「軽いけど、でもあってほしい重みはちゃんとあって。こういうちゃんとしたカメラなら、撮る心構えにも変化があると思います」
この日の川上さんの洋服にも、しっくりと、まるでコーディネートされたかのようです。カメラを身につけて出かけることにも、ファッションのような楽しみを感じられそうですね。
「あると思います。スマートフォンで撮っている人たちは風景の一部になっているけれど、きちんとしたカメラのレンズをのぞいている人を見ると、なにを撮ってるんだろうなって気になりますよね。そういう意味で身体の一部というか、そういう感じで、つい目で追ってしまいますね」