レモンサワーブームを巻き起こしたバーオーナーの田中開(かい)さんと、レストランをプロデュースするなど飲食界を牽引し続ける森枝幹(かん)さん。プライベートでも仲がいいふたりが、食をめぐる話題をお届けする連載。Vol.2は都心から電車で約1時間で行ける小さくてリアルなベトナム、神奈川県の「いちょう団地」へ大人の遠足を決行した。
自らがプロデュースした社員食堂レストラン「UB1 TABLE(ユービーワンテーブル)」で本場タイ仕込みのガパオライスを出したり、昨年も新生渋谷パルコに、タイ料理店「CHOMPOO(チョンプー)」をオープンしたりと東南アジアの食にも造詣が深い森枝幹さん。もちろん、これまでに幾度となくタイを訪れ、ベトナムにも6回出かけている。一方、ドイツ人の父をもつ田中開さんも世界を股にかけた食いしん坊。今年1月には表参道・ジャイルに食のフロア「GYRE.FOOD」を手がけ、話題を呼んでいる。
Vol.1「骨太なのに軽やかな‟ヤミツキ中華”の人気店を大解剖。」はこちら
そんなふたりにとって、旅の記憶はさまざまなアイデアの根源、そしてまだ見ぬ食材や調味料を知る大切な時間だ。ただ、忙しいふたりゆえ旅に出る時間はそうそう取れない……。そんな中、都心からたった1時間ほどで“ほぼベトナム”な団地があるという噂が。台湾に負けないタピオカの味も確かめようと、いざ神奈川県のいちょう団地へ。JR新宿駅から電車で約1時間。小田急電鉄江ノ島線の高座渋谷駅で下車して、徒歩20分ほどで到着だ。
ランドマーク的レストランで、具沢山のまぜ麺を。
最初に訪れたのは、いちょう団地最大の食材店兼レストラン「タンハー」。派出所や郵便局、商店街などが集まる団地の中心部から少し離れた場所にある。一見、倉庫のような建物の扉を意を決して開けると、そこはリアルなベトナムだ。壁いっぱいの棚に並ぶ膨大な食材や調味料、厨房に漂う発酵臭とさまざまなハーブの香り、ベトナム女子たちの片言の日本語……。約束の時間になっても開さんが来ないため、幹さんはひとりで入店。先に注文をし始めた。
森枝幹(以下、幹):このベトナム風のまぜ麺「ブン・ロー・タイ・へオ」を食べてみたいんだけど……。
一品目に注文したのは「ブン・ロー・タイ・へオ」。ブンは、フォーと同じくうるち米を細かな粉に挽いて水で溶いてつくられた麺だが、製法に大きな違いがある。フォーは布の上で蒸し上げたものを棒状に裁断。一方、ブンは小さな穴が開いた容器に溶いた液を入れてトコロテン式に押し出し、湯の中に放つ。米粉を水に漬ける時間もフォーの半日に比べて2晩から4晩長い。そのため、ブンには緩やかな発酵が加わっている。
幹:日本の素麺みたいなブンと、大根と人参のなます、ナッツや豚の耳などの具材をとにかく一体化するまで混ぜる。甘酸っぱくて、冷たいつけ麺みたいな感じかな。ミントが加わることで爽やかさが増して、一気にベトナムに行った気分。
タンハーの壁には膨大な数の食材が並んでいるが、最も目立つのは米を原料としたフォーやブンなどの麺類、そしてライスペーパーだ。ベトナムで最もポピュラーな麺料理フォーは、日本におけるラーメンやうどんのような存在だ。しかし決定的な違いは、その原料が主食と同じ米だということ。ベトナム人は主食と同じ材料で麺をつくり、米を食べる合間にも米の麺を食べ、ライスペーパーで巻いた春巻も頬張る。同じ米主食民族ながら、小麦粉やそば粉など、米以外の材料で麺をつくる日本人よりも、ベトナム人は米と深く結びついているのだ。
そうこうしているうちに、ようやく開さんが到着した。
幹:ダブルブッキングしてしまったというから、集合時間を遅らせたのに、さらに30分以上遅れてるじゃん!
田中開(以下、開):自分の中の認識じゃ、高座渋谷って戸越銀座くらいのつもりでいたんだけど、思ったより時間がかかって……。
幹:だからさぁ、なんなのよ、それ!
タピオカと自然派ワインで乾杯して、ベトナム飯を堪能。
ようやくふたり揃ったところで、さまざまなメニューをオーダー。店でいち推しされていた、タピオカとタマリンドジュースも注文する。タピオカはベトナムの女性たちにも大人気。ベトナムのデザートはタピオカや米などのデンプン素材を使って、モチっとした食感を加えるのが定番だ。タマリンドは料理にも多用されるマメ科のフルーツで、梅干しと干し柿の中間のような酸っぱ甘い味が特長。美容と健康にいいので、ジュースも人気がある。
幹:タマリンドジュースは、この独特の甘酸っぱさがクセになって時々飲みたくなるけど、炭酸で割った方が飲みやすいかな。
開:タピオカは台湾発のやつがどんどん凝り過ぎていって、なんとなく「?」だったけど、ベトナムのは潔くシンプルでいい感じだね。
幹:それにしても全体的に、ベトナム料理と自然派ワインとの親和性は異常に高いね。
開:うん、万能! この持ち込んだチェコ産の自然派ワイン、「ミラン・ネスタレッツ」だっけ。ちょうど、僕と幹くんの間の年齢くらいの造り手なんだよね。
五香粉の香りが効いたベトナム風のビーフシチューは、パンにつけて食べる。ちなみに「バイン・ミー」とはサンドイッチの名称ではなく、パンそのものの総称。一般的にはバゲットより小さいバタールタイプのフランスパンを指す。小麦畑がないベトナムには、もともとパン食文化はなく、フランス軍によって持ち込まれた。
開:このビーフシチュー、いままで食べた中でいちばん旨いかも……。
幹:ホーチミンにある、ビーフシチューの元祖の店にも行ったんで、懐かしいなぁと思って頼んだんだけど、ここのもおいしいね。
開:ハーブを香りの要素としては使ってるけど、味の要素になるほど多くは使ってないから、なんだか味が優しいね。
幹:このブラウンシチューには、混同されがちなタイとベトナムの味の違いがよく表れていると思うよ。
半分ヒヨコになりかけている卵を、注文してから茹でてくれる「ホット・ガー・ロン」。トントンとスプーンで叩いて殻を割ると、できかかった目やくちばし、羽の生えかけた胎児が現れて見た目はちょっとグロテスク。しかし味は濃厚で、豊穣なチキンスープを思わせる。ベトナムでは、怪しげな夜の屋台で裸電球に殻をすかして売られる風景が有名だが、昼の屋台では白いアオザイの制服を着た女子高生たちにスイーツと並ぶ人気を誇っている。
開:(ホット・ガー・ロンが登場すると)あ、オレ、今日もう、おなかいっぱいかもしれない。
幹:どうしたの? これ食べないと来た意味ないでしょ。
開:え、ヒナ食べるの? ヒナっておいしいの?
幹:仔羊とか仔豚とかあるじゃない。こうやって、塩胡椒とハーブ、ザウ・ラムっていうほろ苦いハーブを入れて、中身をほじくりながら食べる。
開:ええっ、ここの底に残ってる部分も食べるの?
幹:そこが旨いっ。
開:…あっ、ほんとだ。旨いっ、なにコレ?
幹:骨になるところ。
ベトナム風お好み焼きのバイン・セオの生地は、米粉をココナッツジュースで溶いたもの。そこに、豚挽肉やエビ、玉ねぎやモヤシなどの具をのせて焼く。一般的には直径30cmくらいあり、小さく千切って野菜に包んで食べるが、タンハーでは最初から一口大なので食べやすい。おいしくて映えるビジュアルに、開さんのアンテナが反応。桜エビとフライドオニオンが入ったバップ・サオもコブクロ炒めも、本国で大人気の目玉焼のせ豚の照り焼きごはんも、ビールやワインが止まらないおいしさだ。
開: (レタスにハーブやなますをのせ、器用にバイン・コットを包む幹さんを見て)オレもそれやりたい!どうすんの? なに、これ?!
幹:これは「バイン・コット」。ベトナム風お好み焼きの小さいやつ。バインセオよりこっちの方が、よりお好み焼き的な感じ。サイズもいいし、流行りそうな感じ。
開:旨いね。野菜の味もちゃんとするし。まだ日本じゃ見ないし、バイン・コットはタピオカの次に流行るかも!?
幹:ついでに、このコーン炒めもコップとかに入れて売ってもいいね。
開:で、自然派ワインやクラフトビールなんか置いて。いいねソレ。
都心から1時間の小さな異国は、誰もがリピーターになってしまう強烈な引力を放っている。日本的な翻訳を施さない現地そのままの味は、意外にもさっぱりとしていて優しい。ていねいな説明付きの日本語メニューと人なつこい店員さんがいるから、未知のオーダーでも気後れすることはない。
さらなるディープゾーンで、バインミーにかじりつく。
神奈川の県営団地で最大規模のいちょう団地は、横浜市と大和市に跨がり、約3,600世帯の2割以上、約720世帯が外国人だ。その国籍は約30カ国におよんでいる。発端は1980年、大和市にベトナム、カンボジア、ラオスからのインドシナ難民のための定住支援施設「大和定住促進センター」が開設されたことに遡る。センターは、独裁政治や内戦から逃れるため祖国を離れたボートピープルの受け皿として機能。日本語教育や生活・就職支援を実施して、98年の閉鎖までに3千人弱の外国人が巣立って行く。多くの人たちは近隣で職場を見つけ、近くの団地に定住した。多国籍タウン、いちょう団地の物語の始まりだ。
開:さっき見た看板、6カ国語で書いてあったね。
幹:ベトナム語や中国語、ラオス語とかかな? カンボジアは、クメール語!?
開:やっぱり、ベトナム人ぽい若者や子どもを多く見かけるね。
幹:日本語と英語の以外の看板はほとんど読めないけど。
開:小学校の壁にラオスのお坊さんの絵が描かれてたりして、ほんと外国に来たみたい。
タンハーからワンブロック、5分ほど歩くと、1階に食材店やベトナムカラオケ、料理店などが並ぶ「メイプレ中和田」という建物がある。その中で、ていねいな接客と的確なアドバイスで日本人たちにも慕われているのが「金福ストア」。以前から、食材が並んだ一角の裏で中華街さながらの叉焼(チャーシュー)を吊るし、バインミー・サンドイッチのテイクアウトをつくっていたが、隣りの物件が空いた時にサンドイッチを中心にしたレストラン「バイン・ミー・ヴィエ」もオープン、イートインも可能になった。自家製のパンに、自家製のカリカリ叉焼が挟まれたサンドイッチと、キュートな店員さんの接客で早くも人気店になっている。
幹:ここはお店も可愛いし、ベトナム女子のスタッフも可愛いし、タンハーとはまた違った魅力。
開:さとうきびジュースの販売機とか、サンドイッチをつくるコーナーもキュート。コレはきっと、そのまま野外に持って行けるやつだね。いいなぁ。
幹:自分で巻いて食べる生春巻とかライギョの土鍋煮とか、メニューも現地っぽい。
開:この自家製パン、つくるの見てるだけで旨そう!
幹:ここも、楽しみだなぁ。さっき、あんなに腹パンだったのに……。
開:別腹でしょ、当然!
フォーとともに、ベトナムの国民食とも言えるバインミーサンドイッチは、つくる人や店の数だけ、さまざまなバリエーションが存在する。バイン・ミー・ヴィエでは「バイン・ミー・ティ」の1種類で勝負する。「ティ」とは肉のことで、テイクアウトの時代から人気が高いカリカリ叉焼(チャーシュー)と自家製パン、たっぷりパクチーの組み合わせは最高の旨さだ。
幹:さっくりしたバケットと、カリカリポーク、揚げネギという食感のマッチングがすごい。
開:なますの酸っぱさと、キュウリの青臭さ、自家製チリソースの辛み、パクチーの香りのバランスも秀逸。いくらでも、いけそう!
幹:これは、もうライギョの煮込みも食べてみないとね!
開:この揚げ餅みたいなのも気になる。
金福時代はバイン・ミー・サンドイッチのテイクアウト1本だったが、レストランができて、本格的にベトナムそのままの味を伝えている。メニューに「Hot!!!」と書かれたライギョの土鍋煮はかなり辛く、とてもしょっぱくてライスがいくらでも進む。中心に角煮を入れたちまきの皮を剥がし、輪切りにして揚げた揚げちまきは、現地そのままの縁起物メニューだ。
幹:ライギョは、相当味が濃い。メシをどんどん減らしてくやつだ。
開:ライギョは、まぁライギョだなぁ、やっぱり。このくらい味が強くないと川魚の香りに負けてしまうかも。現地感、ビンビンだね。
幹:この輪切りのロール寿司みたいなのも、もろ現地ムード。
開:ちまきを切って揚げてしまうという発想が凄いね。お正月の鏡開きみたいな感じなのかな!?
幹:やっぱり、個性の強い食の後には優しいベトナム式コーヒーがぴったり。
開:この甘さに癒やされるよね。
最終目的地は、新鮮な野菜や調味料が揃うアジア食材店。
派出所から郵便局までが集まり、いちょう団地の中枢を成す一角に「いちょうマート」という商店街がある。八百屋やお菓子屋、アジア食材店、婦人服店、床屋やマッサージ店が雑然と並び、シャッターが閉まったままの一角もある。そんな中、料理のプロたちもわざわざ訪ねる店が「シーワント」だ。カンボジアを中心にした豊富な品揃えのアジア食品店で、ここに行けばベトナムからタイなどあらゆる調味料が手に入る。野菜のフレッシュさにも定評があり、通い続けるファンが多い。なにを聞いても親切に調理法まで教えてくれる店主の上原さんは、40年近く前にインドシナ難民として家族と来日。さいたま市や小田原市の会社で勤めた後、帰化して食品店を始めた。
幹:団地の中に、こんな商店街があるなんて、なんだかココに住みたくなっちゃうな。
開:この無造作な感じが、アジアそのもの。騒々しさだけをマイナスした感じ。
幹:商品の陳列や仕分けが素晴らしいから、食材を選びやすいし、比較もできるし、ここ通ってもいいかも。
開:野菜の鮮度もバッチリだし、いいものが安く買える感じがするね。
幹:なんか知らないものに出合えそうな感じ。
開:あれっ! あそこの瓶詰め、なんだろう!?
岩本町でフランス領インドシナ時代の料理を再現する「アンドシノワーズ」、茅ヶ崎の多国籍料理店「クーカイ」や、飯田橋のフレンチ居酒屋「ル ジャングレ」など、シーワントには定期的に通っている料理人の常連が多い。それは、整然と管理されたハーブや野菜、オリジナルの食材に定評があるからだ。口数少ない店主のひと言から、まだ見ぬ料理の可能性が広がっていく。
幹:これ、「ライム塩」って書いてある。
開:塩レモンなら知ってるけど、そんなの聞いたことない。
幹:マスター、これ日本製ですか?
店主:それねぇ、ウチの奥さんがつくってるから。
幹:なるほどぉ。
開:そりゃレアだわ、オレ買おうっ!
いちょう団地のランドマーク「タンハー」で、棚に並ぶ食材を見ながら食事を楽しんで、その日の買い出しのプランを練る。「金福」まで歩き、ママのていねいな説明を聞いて、最近入った調味料やその使い方、味の違いなどを学んだ後、隣りのレストラン「バイン・ミー・ヴィエ」で絶品のバイン・ミー・サンドイッチにかじりつく。その後は「シーワント」に寄って、新鮮なハーブや野菜、麺類、調味料を探す。早くもふたりの中では、いちょう団地でのモデルコースが固まったみたいだ。
開:「シーワント」に売っている中国産のチリソース、タバスコ代わりにピザにかけてもおいしいよね。
幹:スイートチリソースのバリエーションも、国境を越えてこれだけ並んでると圧巻。缶詰や、僕らにはあまり縁がない化学調味料もいろんなタイプのデかいのがあって面白い。
開:ブン・ボー・フエ用の麺もたくさん揃ってて、思わず購入しちゃった。
幹:シーズニングソルト類もたくさんあるし、今度ゆっくり来なきゃ。
異国の街で肩を寄せ合い暮らす人たちの優しさと逞しさに触れながら、電車でたった1時間のリアルベトナムに酔った1日。食材探索だけでなく、文化について、食について、国境について、環境について、平和について、深く考える1日となった。多忙を極める毎日に挟まれた、束の間の緩やかな時間。いちょう団地での大人の遠足は、これからのふたりの活動にどんな影響をもたらすのだろうか。
幹:ま、開の遅刻とかあったけど、今日は来てよかったね。
開:タイ料理やってる人間として、今日の料理、どうだった!?
幹:とりあえず、辛くないね。ほぼ中華と言ってもいいような……。
開:オレはめっちゃ旨かった、全部。都内で食べてるベトナム料理となにかが違う。
幹:全体的に優しい味、ガツンと影響が出るほどにハーブや香辛料を効かせない。
開:自然派ワインとの親和性の高さにもビックリした。
幹:で、結局さ、なにがいちばんおいしかった?
開:実はホット・ガー・ロン、食べてみて衝撃、ヒナおいしかった。
幹:次はいつ来ようか!?
開:ああーっ、いまちょうどソレ聞こうと思ってた。
タンハ―
神奈川県横浜市泉区上飯田町3050
TEL:045-803-2597
バイン・ミー・ヴィエ
神奈川県横浜市泉区上飯田町3173 1F
TEL:045-805-6116
シーワント
神奈川県横浜市泉区上飯田町2670-32 いちょう団地32棟 1F
TEL:045-804-5700
※上記3店とも営業時間、定休日は店に要確認。