東京オペラシティ アートギャラリーにて7月4日より始まった「ドレス・コード?──着る人たちのゲーム」展。社会学的視点を取り入れた全13セクションの展示に触れることで、日々の“着る”という行為に対する意識が変わるかもしれない。
新型コロナウイルス感染拡大により、着飾る機会の減った昨今。日々服を“着る”ことに対しても無頓着になっていないだろうか? しかし、人は服を選ぶことを避けては通れない。1日パジャマのままでいたとしても、パジャマという服を“選んでいる”のだから。
「ドレス・コード?──着る人たちのゲーム」展が、東京オペラシティ アートギャラリーにて7月4日より始まった。本展は、デニムパンツなどの労働着がどのようにファッションアイテムとなったのか、ブランドアイコンのイメージがどのように変化してきたのかなど、服と社会の関わりを13のセクションで見せる。次のページから、その内容を具体的にたどっていきたい。
労働着は、いかにファッションアイテムとなったのか?
この展覧会は、「組織のルールを守らなければならない?」「服は意志をもって選ばなければならない?」「誰もがファッショナブルである?」など挑発的な文言を掲げた13のセクションによって構成され、デザイナーズブランドのアイテムやアート作品、市井の人々のスナップなどを通して“着る”行為を問い直すものだ。
“着る”ことは必然的に“見られる”ことも引き起こす。他者から“見られる”ことを意識して服を選ぶ人は多いだろう。たとえばコム デ ギャルソンを着ている人とユニクロを着ている人を見比べて、人は彼らをどんな人物と思うだろうか?
「こういった服を着ている人はこんな人」といったステレオタイプを多くの人はもっている。それは服飾文化と社会が積み重なってきた結果だ。服は歴史を重ねるにつれ、本来の用途とは関係ない“印象”を纏う。そこには規範や認識などいくつものコードが介在し、人々はその規範に従ったり、あえて外したりする。ファッションとはまさにゲームのようなものだ。本展は単にモードを展示するのではない、社会的見地からファッションをひも解いた、まれな展覧会だ。
「組織のルールを守らなければならない?」のセクションがテーマとするのは制服だ。会場には、ヘルムート・ラング、エディ・スリマンのディオール オム、コム デ ギャルソン・オム プリュス、ポール・スミスなどさまざまなデザイナーによるスーツが展示されている。男にとって制服はなくてはならないものだろう。学生時代はもちろん、社会人になればスーツという名の制服に身を包む。スーツは没個性的なスタイルと思われるかもしれないが、ここに並ぶバリエーションを見ると、一概にそうとはいえない。ディテールやフォルムを変化させて“型”からあえて外れることで、社会的に“どのように見られるか”を操作していることがわかる。たとえば、短丈のトム・ブラウンのスーツはどこか可愛らしさやコミカルさも感じさせる。パンツではなくスカートを合わせた2009年秋冬のコム デ ギャルソン・オム プリュスのスーツは、当時の空気感として漂い始めていたジェンダーレスを主張している。
スーツの起源は軍服だった。試しに襟を立ててみれば、学ランのようなスタンドカラーになる。そのルーツはルイ14世の時代の軍服ともいわれている。
「生き残りをかけて闘わなければならない?」のセクションでは、迷彩服やトレンチコートなど軍服の意匠をモードに昇華した作品が待ち受けている。迷彩柄はそもそも戦場で兵士の存在を隠すためのものだった。地面や森林に潜んで任務を遂行するという用途だ。それが時を経て、ファッションとして主張するようになる。ジョン・ガリアーノによるディオールのドレスやジャン=ポール・ゴルチエが手がけた浴衣には“隠れる”意識は微塵もない。ロンドン・サヴィルロウのテーラリングブランド、リチャード ジェームスは迷彩柄をスーツに掛け合わせる。スーツというオーセンティックなイメージを刷新し、カムフラージュをダンディなものにした。
トレンチコートはもともと、戦場で銃砲撃から身を守るために掘った塹壕(ざんごう)と呼ばれる溝で兵士が着用する外套だった。ダブルの前開き、エポレット、Dカンなどすべてのディテールの存在に実用的な理由がある。同セクションでは、トレンチコートのそのような形状を保ちつつ、テキスタイルに独自性を加えた作品も並ぶ。
アンリアレイジは、針や糸を用いずに溶着のみでつなぎ合わせたピクセル状のテキスタイルでトレンチコートを再構築。タオ・コム デ ギャルソンは、戦場から最も縁遠いガーリーなレースでトレンチコートを仕立てている。
実用のために発明された衣服がファッションとして発展した、という例は多い。「働かざる者、着るべからず?」では労働着に焦点を当てている。最もファッション化したメジャーな労働着といえばデニムパンツだろう。アメリカのゴールドラッシュの際に作業着として使用されたのが始まりだ。インディゴによる色落ちは多くのファッショニスタとデザイナーを魅了する。
フェティッシュなエレガンスで一世を風靡したアズディン・アライアはデニムでボディコンシャスなワンピースをつくった。タイトなフォルム、ジップが労働着をセクシーに見せる。渡辺淳弥が手がけたデニムドレスは複雑なパターン技術と生地のボリューム感で見る者を圧倒する。ユーズド加工のデニムは優美に映り、デニムをクチュールの世界に昇華させている。労働着だったデニムがエレガンスの極みへと上りつめたのだ。
ステレオタイプを追い続ける、終わりなきファッションシステム
こうして見ていくと、“ファッション”の受容力の高さに気づくだろう。軍服や労働着からもさまざまなディテールを取り込み、デザイナーがモードとして打ち出す。新たな美を生み出すブランドの価値は高まり、ブランド名は増強される。結果、人々はそのブランドを着ていることを主張したくなるのか、ロゴに群がっていくのだ。その時ファッションは富と見栄の象徴となる。「見極める眼を持たねばならない?」では、このロゴについて考察する。ブランドの原義は「焼印」である。他社と区別するという意味合いなのだ。その印がロゴとなり、たびたび流行となって街を席巻している。
ロゴは一目でそのブランドと判別できるデザインだ。故に模倣されることも多い。80年代にパリで活躍したファッションデザイナー、故・熊谷登喜夫が手がけたシューズは一目見て某スポーツブランドのパロディということがわかるものだ。現在だったら訴訟ものだろうが、当時はまだ緩い時代だったのかもしれない。3本ラインの間隔がやや太いなど、それぞれのシューズデザインが微妙にオリジナルと異なり微笑ましい。
一方、ルイ・ヴィトンとシュプリームがオフィシャルにコラボレーションしたボストンバッグも並んでいる。2017年に発売された際、ショップには長蛇の列ができ争奪戦となり、いまでも2次流通市場で高騰している。ロゴは人々の欲望を喚起するのだ。
アイテム自体がブランドを象徴しているのがシャネルである。シャネル・スーツと聞いて、なにを思い浮かべるだろう? 富裕な名家のマダムが着ている姿を想起するかもしれない。そういった女性がバリバリと働いているイメージはない。ツイードで仕立てられた、服飾史に名を刻むこのノーカラーのジャケットと膝丈のタイトスカートは、女性の永遠の憧れであると同時に富とステータスの象徴となっている。
ところが、そもそもガブリエル・シャネルがこのスーツをつくったのは女性の社会進出のためだ。コルセットでウエストを極端に細く絞ったスタイルが、20世紀初頭当の西洋の女性たちのスタイルだった。彼女はそのコルセットから女性たちを解放し、自立した女性像をつくり出した。しかしブランド価値が上がるにつれ、シャネルは富の象徴となり、ツイードスーツは憧れの定番となってしまった。
「服は意志をもって選ばなければならない?」ではシャネルを考察している。この完成されたスーツに多くのデザイナーが挑戦してきた。ヨウジヤマモトは当初モードへの反逆を標榜してアヴァンギャルドを突き進んでいたが、しだいに過去のクチュリエたちへオマージュを捧げるようになる。西洋の仕立てを壊し、自己流に再構築する。ディオールやシャネルのアイコンスタイルをヨウジ流に解釈したのだ。ここで展示されるスーツには、マキシ丈のスカート、ロングポイントのシャツ襟、ボクシーなジャケットフォルムなどヨウジらしいエッセンスが盛り込まれている。デザイナー山本耀司が「俺だったらこうするね」とシャネルという伝説的デザイナーとブランドに挑戦した気概を感じる。
現代においてもシャネルという存在に真っ向から挑んだブランドがある。デムナ・ヴァザリアが中心となり立ち上げたヴェトモンだ。ヴェトモンは、ミンクコートにサングラスという出で立ちのルックに「ミラノのマダム」と名づけるなど、属性により強調したステレオタイプを、モードという舞台に立たせたブランドである。
ここで紹介されているのは、だらしなく仕立てられたフォルムや裁ち切りの裾といった、シャネル・スーツのカリカチュアだ。富裕マダムが着るスーツをパロディ化しているのだが、それすらも時が経ち、人々が着用していくにつれて別のスタイルとして定着するだろう。ヴァザリアがアーティスティック・ディレクターを務めるバレンシアガも同様のアプローチだが、人気ブランドであるが故、結局はこちらも新たな典型的スタイルとなってしまう。現に“バレンシアガっぽいスタイル”というものが存在しているのだから。
ファッションとはすべてをのみ込む巨大なシステムなのだ。誰かが抗おうとも、新しいものをつくろうとも、すべてがファッションとなり、ステレオタイプが新たに生まれる。人間は生まれた瞬間から、そんなゲームに強制的に参加することになるのだ。
いまはカリスマもフォロワーも、ハイファッションもサブカルチャーも、すべてが等価な時代。だからなにも考えず、好きなものを着る。これがゲームの勝者なのではないだろうか。「誰もがファッショナブルである?」では、さまざまな意匠をミックスしたブランドが佇む。アレッサンドロ・ミケーレのグッチは花のプリントや刺繍というエレガンスにポップな漫画やメジャーリーグ・チームのロゴを取り入れ、過剰な装飾スタイルを見せる。ニコラ・ジェスキエールのルイ・ヴィトンは18世紀の男性宮廷衣装アビ・ア・ラ・フランセーズにランショーツとスニーカーをミックスと、時代を交錯させる。コードはあれど、自分で規定するのがファッション・ゲームの醍醐味ではないだろうか。
2階のフロアではこれまでの展示を日常に落とし込むかのように、服と人のイメージをつなげるストーリーが紡がれている。対応するアルファベットの写真とセリフをたどると、日々の設定の中で“どう着るか“、“どう見られるか”を選ぶ人々の様子が見える。たとえば、「夜は、結婚式の二次会へ行こうとおもっている」とヒールを履く女性。「みどりのある場所へ足を運ぶ予定でいるから、白にしてみようかな、とおもった」と、幼児を抱きながら白いチュニックを着る女性。ここまで見るとこの展示の本質が伝わってくる。服が人物像を規定し、変化させるのではないだろうか。
日が落ちると人は眠りにつく。明日はなにを着ようか、天気や予定を思い浮かべながら考えるだろう。ファッション・ゲームへの参戦の時だ。コロナ禍において外出する機会が制限され、服への物欲が下がった人が多いだろう。1年前の京都国立近代美術館での開催から巡回している今展だが、コロナ禍のいま見ると、改めて衣服を着ることの豊かさを感じさせる。この展覧会を訪れると、着ることの楽しみ、買い物の楽しみを思い起こさせてくれるのではないだろうか。さあ、今日はなにを着てみようか?
『ドレス・コード?──着る人たちのゲーム』
開催期間:2020年7月4日(土)~8月30日(日)
開催場所:東京オペラシティ アートギャラリー
東京都新宿区西新宿3-20-2
TEL:03-5777-8600
開館時間:11時~19時(入場は30分前まで)
休館日:月
入場料:¥1,200(税込)
www.operacity.jp