【証言者が語る】後編:チームが目指す方向を明確に示す、佐藤可士和のコミュニケーション力。

  • 中村芝翫ポートレート:宇田川淳
  • 文:泊 貴洋
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日本を代表するクリエイティブ・ディレクター佐藤可士和の魅力を語る【証言者が語る】。最終回の今回は歌舞伎俳優の中村芝翫、NYでのユニクロ展開をディレクションしたマーカス・キルシュテンが登場する。

左から順に、MP Creativeを主宰するアートディレクターマーカス・キルシュテン、歌舞伎俳優の中村芝翫。

現在国立新美術館にて個展が開催中、日本を代表する数々の企業のロゴ、サービス、店舗デザインなどを手がけてきた佐藤可士和。その人となりを、一緒に仕事をしてきた人物のインタビューから紐解いてく全3回の記事も今回で最後だ。

中編では日清食品の安藤徳隆や、くら寿司の齋藤武彦が登場。「庶民的なテレビ番組を観ている」「(佐藤が)店舗を利用した際に、LINEでの改善点を教えてくれる」など、気さくな一面を知ることができた。後編では、佐藤のキャリアの転機といえるユニクロの世界進出のパートナーや、才能に惚れ込み、日本の伝統芸能に引き寄せた歌舞伎俳優が、佐藤との仕事や魅力について語る。

1.歌舞伎俳優・中村芝翫/「チームワークも学びました」
2.MP Creative マーカス・キルシュテン/「可士和のデザイン哲学はLess is More」


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1.歌舞伎俳優・中村芝翫/「チームワークも学びました」

八代目中村芝翫。「可士和さんは、もともと年齢も近いのでいろんなところでお目に掛かることが多かったんです」

2016年、三代目中村橋之助が、八代目中村芝翫(しかん)を襲名。その子どもたちが四代目中村橋之助、三代目中村福之助、四代目中村歌之介を襲名し、史上初の「親子4人同時襲名」として話題になった。この時日本各地で行われた襲名披露公演を、佐藤可士和がプロデュース。依頼人は、八代目中村芝翫、その人だ。

「中村芝翫は、代々続く歌舞伎界でも大きな名前。会社の社長に、八代目として就任したようなものですよ。その会社のイメージをいかにつくり、華やかな襲名披露にするかと考えて、お願いに上がったのが可士和さん。もともとお付き合いもありましたし、日清食品さんなどのお仕事を拝見して、従来からの素材を活かしながら新しいイメージをつくる力に興味があったんです」

佐藤が引き受けると、親子でたびたび佐藤のオフィス「SAMURAI」を訪れ、話し合いを重ねた。芝翫が特にこだわっていたのは、それまでの中村芝翫のイメージを変えること。

「芝翫はかつて立役でしたけど、五代目からは女形の色が濃かったんです。でも僕は立役。女形の繊細な芝翫を払拭するような力強いものにしたいと可士和さんにリクエストしたら、自ら硯に墨をやり、筆を走らせてくれました」

歌舞伎座での襲名披露公演を彩った引幕(祝幕)。佐藤自ら翫(和箪笥の引き出しの取っ手)をイメージして筆を走らせた。一門の屋号である「成駒家」を、八代目芝翫が守るというストーリーも表現している。
襲名披露公演には複数の引幕を用意。「各劇場で同じものを使われる方が多いけど、僕は全劇場で変えたくて。お考えになる可士和さんは大変だったと思う」

襲名披露公演を時に力強く、ときにモダンに彩ったのは、舞台の引幕だ。完成したいくつもの引幕を見た時、芝翫は「泣いた」と話す。

「いやあ、嬉しかったですよ。僕は次男坊でしたから、ずっと橋之助でいるものだと思っていたんです。でも父が亡くなる時に『芝翫を襲名しろ』と言われまして……。襲名披露は、僕にとっての大イベント。生まれて初めての自分の引幕でしたから、泣きました。同時に、芝翫襲名の重みも感じましたね」

この時佐藤は、4人それぞれのロゴやオリジナルの図柄をデザイン。それらを引幕に使用するだけでなく、手ぬぐいや風呂敷、浴衣などに展開した。

「当時、いちばん下の子は中学生。学校帰りにサムライに立ち寄ると、襲名をどう考えているのか、どんな襲名披露にしたいのかと、可士和さんが聞いてくれるんです。そうしていろんなメモを置きながらシミュレーションしてくれる。次に集まった時は、可士和さんがさまざまなパターンを出してくれて、『あれがいい。これがいい』と決めていきました。自分の手ぬぐいや風呂敷ができた時は子どもたちもすごく嬉かったようで、枕の横に置いて寝てましたよ」

4人の図柄をあしらった手ぬぐい。芝翫は、歌舞伎文様のひとつ「芝翫縞」をベースに、橋之助らは名前のひらがなをモチーフにするなど遊び心がある。

佐藤には、亡くなった中村勘三郎(十八代目)や坂東三津五郎(十代目)に似ているところがあるという。

「両先輩は、互いのおもちゃ箱を出し合うように芝居をつくり上げていくんです。『俺にはこんなおもちゃ箱があるけど、どんな箱がある?』という感じ。可士和さんも『なんのおもちゃで遊びたい? なにに興味がある?』と聞きながら、素材のよさを引き出してくれる感じがしました。また、みんなの声を上手くまとめてつくられるんですよ。それぞれの意見を尊重されるから、みんなやる気になる。僕は可士和さんに、チームワークも学びましたね」

今後の佐藤に期待することを聞くと、「期待するなんて失礼」と言って笑う。

「いつも期待以上ですから(笑)。これからも隙があれば足でも手でも掴んで、歌舞伎のほうにぎゅって引っ張りたいです。もっと、いろんなことをプロデュースしていただきたいんですよ。いま、歌舞伎界には20〜30代の若い役者が多くて、マンガやアニメを歌舞伎にしたりもしている。そういうものを可士和さんがプロデュースしてくれたら、面白いものになるんじゃないかと思っています」

中村芝翫●1965年、東京都生まれ。4歳で初舞台を踏み、15歳で三代目中村橋之助を襲名。立役として時代物、世話物、新歌舞伎など幅広く活躍。2016年に八代目中村芝翫を襲名。ドラマや映画にも多数出演している。屋号は成駒屋。

2.MP Creative マーカス・キルシュテン/「可士和のデザイン哲学はLess is More」

マーカス・キルシュテン●1966年、ドイツ・ミュンヘン生まれ。ディテールマガジン、ワイデン+ケネディなどでアートディレクターとして活躍。2002年にMP Creative設立。主なクライアントに、ユニクロ、ナイキ、H&M、Theoryなどがある。ニューヨークを拠点に、広告からウェブ、店舗デザインまで手がけるクリエイティブスタジオ「MP Creative」を主宰する。 www.mpcreative.net

2000年代半ば、ユニクロが世界進出するにあたり手を組んだのが佐藤可士和。佐藤はコミュニケーション戦略のコンセプトを「美意識ある超合理性」と定め、ロゴマークやオリジナルフォント、UTやヒートテックなどのブランディングまでトータルに手がけ、ユニクロをグローバルブランドへ押し上げた。その第1弾としていまも語り継がれるのが、グローバル旗艦店「ユニクロ ソーホー ニューヨーク店」の成功だ。2006年のオープンに向けて起用したのが、ニューヨークを拠点に活動するドイツ人のマーカス・キルシュテン。ナイキのブランディングや、雑誌『Big』などを手がけたアートディレクターだ。

「可士和と最初に会ったのは、ニューヨークのMP Creativeのオフィスです。彼は洗練された黒のディオールの服を着ていて、ユニクロチームのなかでも際立っていました。私たちのプレゼンは英語で行いましたが、彼は通訳が翻訳する前に私の言動を観察し、ビジュアルを見て、すべてを理解したようでした。プレゼン終了後、彼は私の手を取って『一緒に働きたい』と言ってくれたんです」

「ユニクロ ソーホー ニューヨーク店」のオープンに向けて、街中のあらゆる場所にロゴやURLなどを展開。これらの欧文フォント開発をマーカスが手がけた。

佐藤からの最初のオーダーは、欧文フォントの開発だった。

「可士和がデザインしたユニクロの新しいロゴに基づいて、共同でオリジナルフォントの英語版を作成することになりました。参照したのは、DIN1451。これは広く使用されているサンセリフ体(トメ、ハネのような飾りがない書体)のもので、ドイツの交通機関などに使われています。私は驚きましたが、可士和が目指すユニクロのコミュニケーションの方向性を明確に示していました」

つくり上げたフォントを使用し、工事の仮囲いやタクシーなど、街中をメディアに広告を展開。マーカスはフリーマガジン「ユニクロペーパー」も担当する。

「可士和のオフィスで行ったブレインストーミングでは、誌面づくりの協力者として、キム・ゴードンや村上隆といった名前が挙がっていたことを覚えています。現在のユニクロブランドにとって、著名人とのコラボレーションは非常に重要なものになっていますよね。そうしてユニクロペーパーの写真やイラストの質の高さに、可士和はいつも驚いていました。アメリカでのブランディング、ひいては日本でのリブランディングにも貢献できたのではないかと思っています」

「ソーホープロジェクトは私のキャリアにおいて重要な節目となり、私たちのエージェンシーは、その後もユニクロとの仕事をしています」とキルシュテン。

ニューヨークを皮切りに、パリ、ロンドン、ベルリンなどに相次いで出店、グローバルブランドとなっていったユニクロ。佐藤とマーカスは同世代で、子どもも同年代だったこともあり、長年にわたり友情を育んできたという。

「興味深いのは、彼と妻・悦子さんの関係。ふたりはビジネスパートナーであり、人生のパートナーであり、子をもつ両親でもある。ふたりは常に世界への好奇心と知識欲を強くもっていて、刺激を受けます。実は数年前、私たちは東京でランチをしました。出会った時は通訳が必要でしたが、可士和は流暢に英語を話すようになっていて、驚きました。おかげで思い出話に花が咲きました」

同業者として、クリエイティブディレクター・佐藤可士和をどう見ているのか。

「可士和と私が共有しているデザイン哲学は『Less is More』。彼は意味を損なうことなく、要素を削ぎ落とす能力に長けています。また色彩感覚や造形センスも素晴らしく、言葉の重要性も知っている。だからあらゆる仕事で高い品質を保つことができるのだと思います。日本でいえば、亀倉雄策、田中一光、石岡瑛子といったデザインの偉人の隣に、すでに佐藤可士和はいる。個人的には、彼が長編映画に挑戦する日を楽しみにしています」


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