日本を代表する企業から、幼稚園や歌舞伎の襲名披露のプロデュースまで、さまざまな分野で活躍する佐藤可士和。彼への仕事の依頼が絶えないのはなぜなのか? 一緒に仕事をした人たちの目線から、佐藤の魅力を全3回の記事で語る。
1990年代に博報堂のアートディレクターとして頭角を現し、2000年に独立し「SAMURAI」を設立。以降、楽天、ユニクロ、セブン-イレブン・ジャパン、日清食品など数々の企業のクリエイティブディレクションを手がけてきた、佐藤可士和。その仕事は企業のブランディングだけでなく、カップヌードルミュージアムやふじようちえんの園舎まで含めたトータルプロデュース、歌舞伎や有田焼などジャパン・カルチャーの発信にまで及ぶ。
今回は、佐藤と縁の深い経営者やクリエイター、歌舞伎役者ら7人が登場。出会いや仕事を通じて感じた才能、知られざる人となりなどを語る。クリエイティブディレクター・佐藤可士和はなぜ、多くのプロジェクトを成功させることができたのか。前編・中編・後編の3つの記事から、その答えが垣間見えるだろう。
1.楽天・三木谷浩史/「デザイナーではなく、ビジネスパートナー」
2.国立新美術館・宮島綾子/「時代を画する人」
3.ふじようちえん・加藤積一/「私の主治医」
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1.楽天・三木谷浩史/「デザイナーではなく、ビジネスパートナー」
佐藤可士和にとって楽天は、最も付き合いが長く、また関係性の深いクライアントのひとつだ。会長兼社長・三木谷浩史と佐藤の出会いは、2003年。「楽天市場」でIT界の寵児となった三木谷が、次のステージを目指していた時代だ。
「楽天は、ネット上の楽市楽座をつくろうと始めた会社。最初は日本らしさを追求した方がいいだろうと考えて、毛筆体でロゴを作っていたんです。でも、そろそろメジャー感を出したいなと。また創業当時はあまりデザイン戦略を考えていなかったので、それも必要だなと思っていました。そんなときに、ある人の紹介でお会いしたのが佐藤さん。食事をしながら『これから、どうしたいんですか?』と聞かれた時、『21世紀の日本を代表する企業にしたい』と話しましたね。車や家、金融商品まで、あらゆるモノを売れるマーケット、あらゆるサービスを提供できる会社にしたいと」
チーフ・クリエイティブディレクターに就任した佐藤は、企業ロゴをはじめ、サービスロゴ、「楽天カードマン」や「お買いものパンダ」といったキャラクターまでトータルにディレクション。18年には楽天社内に「楽天デザインラボ」を設立し、楽天オリジナルのフォントセットも開発した。
「いまはもう70以上のサービスがありますから、日々デザインが必要なわけです。そのすべてをいちいち可士和くんが見ることはできないし、彼がまったくタッチしないわけにもいかない。そろそろ社内で自走できる組織が必要だということで、楽天デザインラボをつくりました。それによってデザインに統一感が出て、サービスごとの多様性も尊重できて。生産性も上がったと思いますね」
現在も佐藤とは「週1回以上」デザイン会議を行い、顔を合わせている。
「最近はコロナの影響で会えませんが、3カ月に1回は食事をしながら仕事の戦略を話したりしますね。『携帯電話に参入したらどうなると思う?』『本当ですか!?』みたいな(笑)。たとえば企業ロゴも、僕がナプキンにバーッと描いて『こんな感じでどう?』と示すとそれをカッコよくブラッシュアップしてくれるんです。出来上がったデザインに意見を言っても、柔軟に対応してくれる。『俺のデザインに口出しするな』という人もいるけど、彼はそうじゃない。ピッタリのものができるまでキャッチボールしてくれますね。だから、いわゆるデザイナーとはまったく違う。どちらかというと、ビジネスパートナーですね」
多忙なパートナーには「世界的なクリエイティブディレクター」になってほしいと期待する。
「ファッションで世界進出した人はいるけど、世界的なクリエイティブディレクターになった日本人はいない。そうなってくれたらいいですよね。だから一緒に世界に行こうよ。そのために『楽天に100%集中して』と言いたい(笑)」
2.国立新美術館・宮島綾子/「時代を画する人」
東京・六本木にある国立新美術館は、コレクションをもたず、自由度の高い展覧会を行ってきたアートセンター。2007年の開館にあたり、そのシンボルマークやロゴタイプを佐藤可士和に依頼した中心人物が主任研究員の宮島綾子だ。
「いままで美術館のロゴを手がけていない方にお願いしたいと思って、デザイナーを調べてたんです。そうしたら、ハイスタのCD、SMAPのキャンペーン、『MUSIC ON!TV』のロゴなど、カッコイイと思っていたデザインの多くが可士和さんで。コンペ参加を依頼する3人のデザイナーのひとりを、可士和さんにすることになりました」
2005年、緊張しながら佐藤の事務所を訪ねると、さまざまな質問を受けたという。
「特に印象的だったのは『特徴のない館名ですね』とハッキリおっしゃったことですね(笑)。国立では30年ぶりにできる美術館で、コレクションをもたない運営は始めて。その方針を端的に示す館名なのですが、たしかに即物的で平凡な名前です。それで『新しい美術館としてアピールしたいけれども、打ち出し方が難しい』と話しました。館の本質的なところを聞いてくださったなと思います」
コンペの実施要項には、英語館名を略した『NACT』や建物の形をなどをロゴの素材として盛り込んでいた。しかし佐藤が提出してきたのは、そのいずれでもなく、漢字の「新」をフィーチャーしたものだった。
「私たちは平凡な名称の『新』に特に注目していなかったので、驚きました。でも館の意義が集約されていて、目指すところはそこなんだと、改めて使命を認識することができた気がしました。それに、建物の特徴も含め、ロゴにすべての要素が盛り込まれていたんです。たとえば『新』を構成する線はすべてくっつかずに離れていて、可動壁で展示室内を区切るパーティション・システムを表しています。そしてすべての線の片側は直線で、もう片側は丸くカーブしていますが、直線のほうはパーティション・システムを、曲線のほうは建物の表面のガラスのカーテンウォールを表している。一瞬で、これしかないと思いました」
ロゴを手がけた国立新美術館で開催中の『佐藤可士和展』。宮島が「いつか開催したいと思っていた」という佐藤初の大規模個展だ。
「1989年から2021年までのクライアントワークからアートワークまで網羅しています。可士和さんが中心に考えているのは、ロゴのセクション。ロゴを巨大な絵画やオブジェにして、壮大なインスタレーションを展開しています」
美術史研究者である宮島は「佐藤可士和」の才能をどう捉えているのか。
「新しい時代をつくっていくような仕事を、一度ではなく、ずっとなさっている方ですよね。美術の歴史を見ても、時代を画するものをつくる人は、真似する人や追随する人が出てきて、だんだんスタンダードになっていくんです。たとえばユニクロのロゴは、最近、中国のブランドで似たものが多い。ユニクロがカタカナとアルファベットのロゴを並べているように、漢字と英語の正方形のロゴを並べて運用しているんです。日本では、セブンプレミアムのブランディングを他社がお手本にしていますよね。そんなふうに、社会の共有財産となるクリエイティブで時代の流れをつくり続けている存在が、可士和さん。これからもずっと、時代を画する、新しいものを見せてくださるんだろうなと思っています」
3.ふじようちえん・加藤積一/「私の主治医」
東京都立川市にある「ふじようちえん」は、子どもが自ら育つ力をはぐくむ「モンテッソーリ教育」を採り入れ、1971年に開園。サラリーマンを経て家業を継いだ園長の加藤積一は、2000年頃から木造園舎の建て替えを検討していた。その時、遊具・教材開発会社のジャクエツに紹介されたのが、佐藤だった。
「NHKの『トップランナー』に可士和さんが出られた時に、『病院や幼稚園のデザインもやってみたい』とおっしゃったらしいんです。それを聞いたジャクエツの方が、『よい方がいますよ』と私に教えてくれて。まずお伝えしたのは、『ウチは土と木しかないですけど、大丈夫ですか?』ということ。そうしたら可士和さんが、『いや、それ最高ですよ』と(笑)。すぐに意気投合しまして、『面白い! この方ならお願いできる』と思いました」
佐藤は、『屋根の家』などで知られる建築家・手塚貴晴+手塚由比夫妻を紹介。三者で話し合いの日々を重ね、07年に誕生したのが、現在の楕円形の園舎だ。
園舎設計にあたり、加藤園長がこだわったのは「学びをデザインする」こと。
「戸なんか、ちゃんと閉まらなくていいんです。そのほうが『寒い』と周りの子に言われて、戻って閉める。不便な方が、物事をきちんとする癖ができるんですよ。そんなふうに『学びをデザインしたい』と話したら、可士和さんが『わかりました。状況をデザインしましょう』と言ってくれたんだけど、僕にはチンプンカンプン(笑)。それを手塚先生たちが、建築に落とし込んでくれました」
そうして、片手では閉めにくいドアや、水を出し過ぎると自分の足にかかってしまう『流し台のない蛇口』などを設置。独創的な園舎は、ユネスコやOECD(経済協力開発機構)により「世界で最も優れた学校」に選ばれた。
「当時、上空からの写真が読売新聞の一面に載って、驚きました。知り合いからたくさん電話をもらって、可士和さんからも『園長先生、よかったですね』って。その時、言われたんですよ。『園長先生に園舎が似合ってる』と。その人に似合うものをつくることが、アートディレクションなんだとわかりました」
「子どもを通わせたい」と遠方からわざわざ引っ越してくる家族まで現れた、ふじようちえん。加藤園長にとって、佐藤は「主治医のような存在」だという。
「普通、施主は建築家に『何部屋欲しい』と頼んで、建築家は『何部屋なら、ここにトイレですね』とスペックを並べますよ。でも可士和さんは、そういうことは一切言わない。『ビルではなく、できるだけ田舎臭くしたい』『園庭は狭くしたくないけど、建物は平屋にしたい』と構わず言うと、意見を整理してくれて、『求めているのは、これでしょ?』と処方箋を差し出してくれるんです」
新しい園舎になって14年が経ち、初期の卒園生は成人に近づいている。
「この前、卒園生のお母さんが、私の講演会に来てくれたんですよ。そして『ウチの子はいまでも、幼稚園は楽しかった〜、いっぱい遊んだなあ、と懐かしそうに話すんです』と教えてくれました。園舎でいろんな賞もいただいたけど、私はもう、それだけで充分ですよ。よい時間を過ごしたと思ってもらえたら、それが財産。これからもウチなりに、一歩一歩歩んでいきます」
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