向田邦子や村上春樹が過ごした、千駄ヶ谷の風景を訪ね歩く。【速水健朗の文化的東京案内。外苑篇④】

  • 文:速水健朗
  • 写真:安川結子
  • イラスト:黒木仁史
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スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す東京を、ライターの速水健朗さんが案内。過去のドラマや映画、小説などを通して、埋もれた歴史を掘り起こす。今回は千駄ヶ谷の地にゆかりのある、ふたりの作家が見た街の景色を改めて巡ってみた。

速水健朗(はやみず・けんろう)●1973年、石川県生まれ。ライター、編集者。文学から映画、都市論、メディア論、ショッピングモール研究など幅広く論じる。著書に『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』などがある。

これまで3回にわたり、神宮外苑の成り立ちや国立競技場の歴史、1964年の東京五輪に対する見方などを紹介してきた。今回は少し趣向を変え、千駄ヶ谷の街を歩いてみたい。この地にゆかりのある向田邦子や村上春樹が残した足跡を、速水さんが辿ってみた。

向田邦子が開会式を目撃した場所とは?

JR千駄ヶ谷駅から鳩森八幡神社方面へ向かう途中で目に入るレトロなマンション群。その多くが1960〜70年代に建てられたものだ。

JR千駄ヶ谷駅から南に50mも離れると、1960〜70年代に建てられた渋いマンションをそこかしこに見ることができる。ここは、東京随一のヴィンテージマンションエリア。家賃の高いエリアとはいえ、築年数が古いからだろうか、ネットで賃貸物件を探すと30㎡台で家賃が月10万円以下という物件もちらほら。千駄ヶ谷がマンションラッシュで変わったといわれた時代も、もはや40~50年前のこと。

脚本家、エッセイスト、作家の向田邦子。『思い出トランプ』『父の詫び状』など、練られた構成と独自のセンスで書かれたエッセイは、いまも色褪せることなく愛されている。1981年、遠東航空機墜落事故にて死去。写真:毎日新聞社

脚本家の向田邦子は、30代半ばにしてひとり暮らしを始めた。よく当時の生活をエッセイのネタに扱っていたが、「霞町マンションBの二」とアパート名と部屋番号まで記している。霞町は麻布の一部を指した旧町名である。年配のタクシー運転手が未だにそう呼ぶことがある。

毎週土曜日に注文する鰻屋の出前持ちからは、誰かの愛人なのかと勘繰られ「Bの二号さん」と呼ばれていたという。高級住宅地のマンションにひとりで住む女性というだけで訝しがられた時代だったのだろう。「二号さん」という言い方も、使われなくなって久しい。

1964年、東京・旧国立競技場で行われた第18回東京オリンピック開会式。天皇陛下が開会宣言を述べた後に、聖火リレー最終走者の坂井義則により聖火台に点火された。写真:毎日新聞社

また、向田が賃貸物件を探し回った際に、当時マンションラッシュだった千駄ヶ谷も見ていたようだ。彼女がひとり暮らしを始めた年は、オリンピックが開かれた64年。開会式の記憶と重ねた部屋探しのエピソードは有名だ。父親と口喧嘩をして、猫と一緒に実家を飛び出した。ペットを飼える物件は、当時はそう多くなかったのだろう。

不動産屋のクルマで物件を案内してもらい、クルマが青山の横丁を曲がると眼下に旧国立競技場が広がっていた。そして、ちょうどそのタイミングで聖火ランナーが聖火台まで駆け上っていたのを目撃する。これはエッセイ「伽俚伽」でのエピソードだが、場所について別の作品では「明治通りの横町」と記されている。果たしてどこだろう。

千駄ヶ谷一帯の総鎮守である鳩森八幡神社。近くには、日本将棋連盟本部の将棋会館も立っている。

映画のロケ地などを探るブロガーのTOKUSABURO氏は、このエピソードが彼女の記憶違いではないかと指摘する。「道路上から聖火台が見えたというのならば、鳩森八幡神社南側の道路沿いやや東側近辺しかないはず」との推測だ(「東京『あの場所は?』秘宝館」 2015年)。青山の横丁、当時の国立競技場の聖火台が見える場所をいくつか挙げているが、どこも一方通行であるなどと根拠を示している。

千駄ヶ谷駅から南に伸びる道は五叉路に分かれ、正面に進むと鳩森八幡神社(はとのもりはちまんじんじゃ)に当たる。さらに神社の脇に左折した坂道を下ると、カーブした先から2019年末に開場した国立競技場が姿を現す。きっと向田も、旧国立競技場をここから見ていたのだろう。

いまでも千駄ヶ谷1丁目付近の坂道からは国立競技場の外観が一部見える。向田が不動産屋のクルマから眺めたのは、ここからの景色ではなかっただろうか。

村上春樹ゆかりの地、千駄ヶ谷を巡る。

村上春樹が経営していたジャズバー「ピーター・キャット」が入っていたのは、写真のビルの2階だ。現在は別の飲食店が入っている。

この鳩森八幡神社は、村上春樹にゆかりのあるエリアとしても知られる。ハルキストは、聖地として千駄ヶ谷を訪ねるので、検索をすれば個人ブログの聖地巡礼記事がすぐに見つかる。ヤクルトファンである春樹のエッセイには、小説家になる決意をしたとされる明治神宮野球場がよく登場する。さらに、行きつけの理容室「ナカ理容室」や、彼が作家デビュー時まで経営していたジャズバー「ピーター・キャット」が入っていたビルもこの辺りだ。

1978年4月1日、ヤクルトのバッター、デイブ・ヒルトンがヒットを打った音が球場に響きわたった。その瞬間、観戦に来ていた当時29歳の村上春樹は「そうだ、小説を書いてみよう」と思い立ったという。

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、1985年に刊行された長編小説。「井戸」「地下」「消えた奥さん」「ボブ・ディラン」など春樹作品の頻出ワードがこの作品でも登場するが、「壁」は初出だろうか。春樹は東京を舞台にすることが多いが、千駄ヶ谷は他に出てきた記憶がない。

主人公は水が流れる暗い地下通路を延々と歩き、ビルの地下に辿り着く。どうやら千駄ヶ谷方面だと、同行する若い女が口にする。「私は地上の風景を頭に浮かべてみた。もし彼女の言うとおりだとしたら、この上あたりに二軒並んだラーメン屋と河出書房とビクター・スタジオがあるはずだった」。作品は35年前だが、この描写と現在の千駄ヶ谷はほぼ変わらない。ホープ軒は1960年創業。作家デビュー前後の春樹がこの街に住んでいた頃も、いまもここで営業している。かつては隣もラーメン屋だったのだろう。安定のホープ軒であり、自分の人生を振り返ってみても、6、7回はここでラーメンを食べている。

村上春樹が8年ほど行きつけにしていたという「ナカ理容室」。千駄ヶ谷から引っ越した後もしばらく通っていたようで、エッセイにも何度か登場している。

出版社の河出書房新社の社屋や、ビクターのスタジオも同じ並びに立つ(いずれも2020年現在)。スクラップ・アンド・ビルドの街と呼ばれる東京においては奇跡的なことではないか。とはいえ、明治公園の一部に国立競技場が取り込まれるなど、広がる風景はガラリと変わっている。

主人公たちはそのまま地上に出ることなく2時間以上歩き、青山1丁目駅近くの神宮球場や秩父宮ラグビー場の地下をさまよったのだろう。神宮球場の地下には、本作に登場する邪悪な謎の生き物「やみくろ」の巣が存在するという。

1960年に1台の屋台から始まったホープ軒。タクシー運転手がクルマを置いたままでもさっと食べられるようにと、1階では「立ち食いスタイル」でラーメンを提供している。

ちなみに神宮外苑は、東京五輪後に大規模再開発の計画がある。神宮の森が「高層ビルの森」になるのではないかと危惧もされている。その場所がまさに『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の地下ワールドの真上というのは面白い。再開発によってやみくろの巣が掘り起こされるかのよう。ただ、神宮外苑に住むやみくろと聞くと、どうしてもスワローズのキャラクター「つば九郎」が思い浮かぶ。つば九郎の誕生は94年で春樹が小説を書いた時には存在していなかったのだが。

1964年に開園した明治公園。国立競技場が公園内の一部エリアまで入り込み、2016年に写真の「霞岳広場」と「四季の庭」は廃止された。(c)SHIGEKI KAWAKITA/a.collection/amanaimages

春樹が80年代に書いた長編は『羊をめぐる冒険』『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『ダンス・ダンス・ダンス』。これらの主人公は、新しい時代=80年代に戸惑っている。自分以外は誰も気づいていないかのようにそこに同化しているのが、主人公の戸惑いポイント。仕方なく彼は、破れかぶれにトーキング・ヘッズ、ポリス、デュラン・デュランなどリアルタイムのポップミュージックを聴いている。

老科学者により意識の核に思考回路を組み込まれた主人公が、その回路に隠された秘密を巡り、状況を理解できぬまま奮闘する。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(村上春樹著 新潮社 2010年)写真:青野 豊

苦しい攻防が描かれる『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』だが、主人公の生活をのぞき見てみると、当時を楽しんでいるようにも見える。地下鉄の出口から地上に出ると、表参道のスーパーマーケット(紀伊國屋だろうか)のサンドウィッチ・スタンドで食事をし、ポリスをカセットテープでかけるタクシーに乗って世田谷の自宅アパートに帰り、シャワーを浴びてコインランドリーに行き、レンタルビデオショップに向かう。そこでの作品は『ストリートファイター』。といってもジャン・クロード・ヴァンダムではなく、1975年公開のウォルター・ヒルのデビュー作品。

その後、彼は電車で銀座に向かい、「ポール・スチュアート」でシャツとネクタイとブレザーコートを購入する。シャツはボタンダウンシャツでネクタイはニットタイだろうか。60年代のアイビースタイルを引きずっているのだ。ポール・スチュアートは、表参道の店舗が2020年2月に閉店した。表参道と銀座のショップはともに81年に開店。銀座店は健在であり、移り変わりの激しい東京とはいえ案外残っているショップやマンションも多い。

向田邦子の2作目のエッセイ集。記事内で登場した作品「伽俚伽」など、なにげない日常に鋭い視点が光る。『眠る盃』(向田邦子著 講談社 2016年)写真:青野 豊

千駄ヶ谷という街をテーマに、向田邦子と村上春樹について話してきたが、両作家に共通する部分はほぼない。時代的にも交わらず、向田が飛行機事故で亡くなった年に春樹は作家を本業にしてジャズバーを閉めた。ふたりに共通点があるとすれば、猫好きの作家というところ。エッセイのタイトルである伽俚伽は、向田が飼っていた雌のシャム猫の名前。春樹もずっと猫を飼っていて、ピーター・キャットの店名も当時飼っていた猫の名前に由来する。

2021年の東京五輪開催で気になる明治神宮外苑。4回にわたってこの場所について案内してきたが、最後に改めて地図とともに振り返っておきたい。


【外苑篇①明治神宮外苑の銀杏並木には、かつての帝都の手触りが残っている。】はこちら

【外苑篇②『いだてん』で描かれた、国立競技場を巡る物語。】はこちら

【外苑篇③スポーツはエリートだけのものだった? 東京五輪中止を願った文化人たち。】はこちら


まずはやはり、1964年東京五輪の舞台となった「旧国立競技場」(①)。24年に完成し、五輪の開会式や各種競技の舞台となったが、関東大震災の被災者収容施設や戦時中の学徒出陣壮行会会場としても使われてきた。なお、現在の国立競技場は建築家の隈研吾が手がけ、2019年11月に完成した。

その国立競技場の目の前にかつて存在していたのが、「明治神宮水泳場(神宮プール)」だ(②)。1930年にオープンし多くの水泳競技会に用いられていたが、施設老朽化や赤字のため97年に閉鎖した。現在ではその跡地に「三井ガーデンホテル神宮外苑の杜プレミア」が立っている。

銀杏並木とともに、東京の名所として浮かぶのが1926年竣工の「聖徳記念絵画館」(③)。館内には、明治天皇・昭憲皇太后の御在世中の様子を伝える壁画が展示されている。

あまり知られていないが、「明治神宮野球場」には面白い過去もある。1953~55年の2年間、野球のシーズンオフ期間中に神宮球場の外野席がゴルフの打ちっぱなし練習場として用いられていた(④)。その後、72年には外苑に常設のゴルフ練習場がオープンしたが、2020年東京五輪開催に伴い営業を休止している。

また、外苑の手前を横切る「青山通り」には路面電車が走っていた(⑥)。カフェやショップが軒を連ねる現在とは随分印象の異なる60年代の話だ。

そして国内の並木道の多くは街路樹が2列仕様なのに対し、神宮外苑の銀杏並木(⑤)は4列の豪華なつくりだ。これは、1912年の明治天皇崩御により動き出した、大規模都市計画の一環。車道と歩道を区別した、散歩に適する道「公園道路」の実現によるものだった。

大規模プロジェクトとして時間や予算をかけてつくられた明治神宮外苑。関東大震災後、第二次世界大戦後、そして64年東京五輪開催と、急場しのぎの都市計画の積み重ねで現在に至った東京の街において、非常に特殊な場所といえるのではないか。