スポーツはエリートだけのものだった? 東京五輪中止を願った文化人たち。【速水健朗の文化的東京案内。外苑篇③】

  • 文:速水健朗
  • 写真:安川結子
Share:

ライターの速水健朗さんが、過去のドラマや映画、小説などを通して東京の埋もれた歴史を掘り起こす。今回は明治神宮外苑が舞台となった1964年の東京五輪について。当時のスポーツは庶民に馴染みあるものではなかった。その事実を、数名の文化人の存在に着目しながら浮き彫りにしていく。

速水健朗(はやみず・けんろう)●1973年、石川県生まれ。ライター、編集者。文学から映画、都市論、メディア論、ショッピングモール研究など幅広く論じる。著書に『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』などがある。

東京オリンピックの行方について関心が高まる現在に比べ、1964年当時は世間のオリンピックへの関心は薄かったそうだ。それは、スポーツがまだ国民的なものではなく一部のエリートだけのものだったためと語る速水さん。オリンピックを批判した前衛的文化人やエリートなど、それぞれの姿を小説や映画を通してひも解いてくれた。

五輪中止を願った、非エリートの松本清張。

2019年11月末に完成した国立競技場の横道を歩く速水さん。聖徳記念絵画館や明治神宮野球場など、周辺施設を含む明治神宮外苑は1920年代に史上最大規模のプロジェクトとしてつくられた。

神宮外苑は、東京のど真ん中ながら他所とは違った巨大なスケールでつくられた場所だ。さらに、オフィスや飲食店といった主要な都市機能が備わっていない。日常に影響を与えない無用な場所だ。逆にいえば、そんな場所があるからオリンピックを開催できた。なぜ都市のど真ん中につくられたかについては、前回、前々回を参照してほしい。


【外苑篇①明治神宮外苑の銀杏並木には、かつての帝都の手触りが残っている。】はこちら

【外苑篇②『いだてん』で描かれた、国立競技場を巡る物語。】はこちら


1964年の東京五輪は、みなが一枚岩になった大会という印象がいまでは強いが、実はそうでもなかった。直前まで国民的な関心は低かったし、そもそもスポーツ全般への理解度も現在とは違った。文化人たちは、常に批判の矛先を向け続けていた。当時、大胆にも「中止になったら快いだろう」と書いたのは、松本清張である。

大勢の観客が注目する中で行われた、1964年の東京オリンピック聖火リレーの様子。写真は新宿1丁目にて撮影されたもの。写真:新宿歴史博物館

「いったい私はスポーツにはそれほどの興味はない。私たちの青年時代に若い人でスポーツ好きなのは、たいてい大学生活を経験した者だった。学校を出ていない私は、スポーツをやる余裕も機会もなかったし、理解することもできなかった」(『1964年の東京オリンピック』石井正己編 河出書房新社 2014年)という。清張が五輪中止を願った理由は、自分の人生がスポーツと関係がないからだった。とはいえ、そんな彼も神宮外苑の国立競技場に足を運んだひとりだ。記事を書くためではあるが、開会式、閉会式に参加し、観客席から直に五輪を体感したのだ。

『点と線』『ゼロの焦点』などの推理小説を執筆し、戦後日本を代表する作家となった松本清張。しかしその道のりは苦労の多いものであり、作家デビューも42歳と遅咲きだった。写真:毎日新聞社

清張は非エリートな半生を過ごしてきた。小学校を出てすぐにお茶くみのような雑務から仕事を始め、印刷所の見習工を経て、新聞の広告図案を作成する仕事を得た。いったんは兵隊として戦争へも行くが、戦後は再び広告図案作成に復帰し、その後作家となった。デビューの時期は遅く、40歳を超えていた。人生のどの時期においてもスポーツを楽しむ余裕などなかったのだ。そのため若くしてちやほやされるような文化人のたぐいに対し、快くは思っていなかった。彼は代表作『砂の器』に「ヌーボー・グループ」と呼ばれマスコミにちやほやされる文化人たちを登場させている。

東京・蒲田駅の操車場で起きた殺人事件を発端に、刑事の捜査と犯罪者の動静を描く長編推理小説。これまでに映画化やテレビドラマ化も行われ、話題を集めた。『砂の器』(松本清張著 新潮社 1973年)写真:青野 豊

ヌーボー・グループは、既存の価値観を否定する30歳手前の芸術家たちの集まりである。作中の会話で「進歩的な意見を持った若い世代の集まりと言った方がいいでしょうか。作曲家もいれば、学者もいるし、小説家、劇作家、音楽家、映画関係者、ジャーナリスト、詩人、いろいろですよ」と説明されている。1950年代の「実験工房」や60年安保に反対を表明した「若い日本の会」辺りを意識していたのだろうか。ちなみに、『砂の器』の主要登場人物である和賀英良のモデルは、現代音楽家の黛敏郎といわれている。五輪当時の黛は35歳、清張は54歳だった。

1954年頃に撮影された、「実験工房」メンバーの集合写真。前列左端が顧問格であり詩人の瀧口修造、同左から5番目が作曲家の武満徹。写真撮影:大辻清司 写真提供:東京パブリッシングハウス

黛は東京オリンピックの開会式で注目を浴びた芸術家のひとりだ。彼が手がけた電子音楽が、広い国立競技場内を昭和天皇が歩いて移動する間に流された。天皇が席につくと君が代の演奏が始まるのが当時の天覧試合での決まりごとだったが、国立競技場が広過ぎたこともあり、間をもたせるためにこうした構成になったようだ。NHKが協力して全国各地の寺を回り、鐘の音をサンプリングしてつくった電子音楽。サンプリングした音源を作品に活かすというのはいまでは当たり前の手法だが、当時は現代音楽の分野でしか使われていないものだった。ただ、これのどこが音楽なのか理解できないという声も多かったという。

現代音楽家の黛敏郎。フランス留学の後に、日本で初めて電子音楽を手がけた。現在も続くテレビ番組「題名のない音楽会」を企画し、初代司会者としても活躍。写真:毎日新聞社

同じく若手文化人の代表格だった大江健三郎は、当時28歳。東大在学中に芥川賞を受賞した。大江も五輪が開催されると神宮外苑の国立競技場に招待され、観客席に座っていたひとり。清張とは視点が違えど、大江もまた五輪を批判していた。人々がテレビやラジオで五輪に夢中になる様子を「われら消費文明ロボット」と皮肉を込めて書いている。“われら”というのは、そこに自分も含めているわけだが、普段は善良な市民がいざ戦時となると集団狂気に捉えられる日本人という意図が込められている。まだ敗戦から20年も経っていなかった。

1964年の東京オリンピックで沸き立つ旧国立競技場。大江健三郎は、この様子を映し出すテレビがスポーツ大会にもたらした革命的な変化について指摘した。写真:新宿歴史博物館

当時の若手文化人には、前衛であるかどうかも問われていた。前衛には、「最先端」の意味もあるが、共産主義用語における前衛は、「革命の最前線を文化・芸術が担う」という意味だ。小説も演劇も詩も映画も前衛であるかどうか、つまり社会批判的かどうかが常に問われるものだった。エリート意識、生活保守的な大衆に批判的かどうか。その辺りのニュアンスを清張は嗅ぎとりながら、若手文化人をヌーボー・グループとして小説に登場させたのだ。

短編「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞した大江健三郎。1994年にはノーベル文学賞を受賞した。写真は64年のもの。写真:毎日新聞社

スポーツを堪能した、ブルジョワ層の加山雄三。

1962年にスタートした“若大将シリーズ”の3本目。京南大学のマラソン部に所属する若大将の青春が描かれている。『日本一の若大将』(監督/福田純 出演/加山雄三、藤山陽子他 1962年 日本映画 DVD/東映)写真:青野 豊

さて、前衛と最も離れた場所にいたのが加山雄三だ。彼も音楽家であり、作詞家であり、映画俳優。マルチな才能をもったアーティストだが、どれだけ彼がその分野で活躍しようが、若手文化人とは呼ばれない。彼自身が真逆、つまり消費社会(アメリカ的価値観)を体現するような存在だったからだろう。加山といえば、スポーツである。

「ほほ俺は ほほ若大将 ぼうや育ちだけれど 甘く見るなよ」(作詞/青島幸男 )というのは、『日本一の若大将』主題歌の歌詞。坊や育ちのボンボンがスポーツで活躍するというのが若大将シリーズ。松本清張が主張する「青年時代に若い人でスポーツ好きなのは、たいてい大学生活を経験した者」という指摘は、まさに加山雄三に当てはまる。

映画公開まもない、1963年に撮影された聖徳記念絵画館。作中では、主人公たちがマラソン大会のスタート直前に、絵画館前で準備体操をしている。写真:新宿歴史博物館

『日本一の若大将』では、大学マラソンが描かれる。ユニフォームは、銀座のスポーツ用品店で特注。ユニフォーム以外は、小型クルーザーを売っている富裕層向けのショップで揃えている。合宿先は箱根の芦ノ湖。別荘が多く立つ場所で、若大将は水上スキーの大会に飛び入り参加して活躍する。マネジャーの青大将(田中邦衛)は父親が大企業の役員で、勝手に父親の金で例のクルーザーを買ってしまい、それがバレて家を勘当になる。そして若大将は、実家の祖母から借金をしてクルーザーを買い取る。代金400万円。大卒初任給が1万5700円だった時代にこの額をポンと出す。若大将の実家は老舗のすき焼き店であり、驚くほどのブルジョワ生活で前衛らしさのかけらもない世界だ。

青山通りと交差する、青山1丁目交差点近辺の1961年の様子。カフェやショップが軒を連ねる現在とは異なり、路面電車も走っている。写真撮影:池田信 写真提供:毎日新聞社

映画で神宮外苑が描かれるのは、終盤のマラソン大会当日の場面。スタート地点は、神宮外苑の絵画館前である。選手たちは青山通り方面に飛び出していく。1964年の東京五輪では新宿方面に向かうので、それとは違ったコースをたどる。映画に映る青山通りの様子は、いまとは随分と異なる。道幅は広く、映ってはいないがまだ路面電車が走っていた時代。道沿いにファッションビルなどもない。

ゴールの場面で再び、国立競技場周辺に戻ってくる。競技場から近い中央線が走るガード下は外苑橋と呼ばれ、ここから競技場までの道は内外苑連絡道路。神宮外苑が立派な森であることがわかる鬱蒼とした緑で覆われている。都心とは思えない風景だ。カーブを曲がれば国立競技場まで一直線だが、残念ながら肝心の競技場の外観までは撮影許可が下りなかったようで、別の場所が使われている。当時の国立競技場がスタンドの増築工事を行っていた最中だったのか、マラソンスタート直後の場面でちらっと映るだけだ。

いまの千駄ヶ谷駅から競技場までの道が、映画の中ではマラソン大会の最終コースとして映し出されている。なお、ゴール地点は設定では国立競技場だが、実際には撮影の関係で別の陸上競技場が使用されている。

当時大学生役を演じることができる年齢だった加山雄三も、いまや80歳を超えている。2020年大会では、聖火ランナーに抜擢。かつて映画で走った神宮外苑を走ってくれればいいが、彼は神奈川県代表。生まれ故郷である湘南の海辺を走るのだろう。三波春夫版がヒットした『東京五輪音頭』の2020年版を担当して歌ってもいるが、そちらはあまり話題を呼ばなかった。

2021年東京オリンピックの会場となる国立競技場。コロナウイルスの蔓延によりオリンピック開催が延期され、また来年に注目を浴びることだろう。

松本清張が自分とは関係ないものと断言した時代に比べると、現代のスポーツは庶民のものになった。ホイチョイ・プロダクションズが80年代に手がけた作品による影響もあっただろう。前衛だからオリンピック反対という声はないだろうが、やはり文化人たちが東京五輪を批判するのはいまも昔も変わらず。ネット上でも五輪嫌い派を後押しする。ただ今回は、みなの好き嫌いを超えたところで新型肺炎ウイルスが世界的に蔓延し、開催が延期。いったいどうなるのだろう。


【速水健朗の文化的東京案内。外苑篇④】に続く。