ライターの速水健朗さんが、過去のドラマや映画、小説などを通して東京の埋もれた歴史を掘り起こす。今回は明治神宮外苑が舞台となった1964年の東京五輪について。当時のスポーツは庶民に馴染みあるものではなかった。その事実を、数名の文化人の存在に着目しながら浮き彫りにしていく。
東京オリンピックの行方について関心が高まる現在に比べ、1964年当時は世間のオリンピックへの関心は薄かったそうだ。それは、スポーツがまだ国民的なものではなく一部のエリートだけのものだったためと語る速水さん。オリンピックを批判した前衛的文化人やエリートなど、それぞれの姿を小説や映画を通してひも解いてくれた。
五輪中止を願った、非エリートの松本清張。
神宮外苑は、東京のど真ん中ながら他所とは違った巨大なスケールでつくられた場所だ。さらに、オフィスや飲食店といった主要な都市機能が備わっていない。日常に影響を与えない無用な場所だ。逆にいえば、そんな場所があるからオリンピックを開催できた。なぜ都市のど真ん中につくられたかについては、前回、前々回を参照してほしい。
【外苑篇①明治神宮外苑の銀杏並木には、かつての帝都の手触りが残っている。】はこちら
【外苑篇②『いだてん』で描かれた、国立競技場を巡る物語。】はこちら
1964年の東京五輪は、みなが一枚岩になった大会という印象がいまでは強いが、実はそうでもなかった。直前まで国民的な関心は低かったし、そもそもスポーツ全般への理解度も現在とは違った。文化人たちは、常に批判の矛先を向け続けていた。当時、大胆にも「中止になったら快いだろう」と書いたのは、松本清張である。
「いったい私はスポーツにはそれほどの興味はない。私たちの青年時代に若い人でスポーツ好きなのは、たいてい大学生活を経験した者だった。学校を出ていない私は、スポーツをやる余裕も機会もなかったし、理解することもできなかった」(『1964年の東京オリンピック』石井正己編 河出書房新社 2014年)という。清張が五輪中止を願った理由は、自分の人生がスポーツと関係がないからだった。とはいえ、そんな彼も神宮外苑の国立競技場に足を運んだひとりだ。記事を書くためではあるが、開会式、閉会式に参加し、観客席から直に五輪を体感したのだ。
清張は非エリートな半生を過ごしてきた。小学校を出てすぐにお茶くみのような雑務から仕事を始め、印刷所の見習工を経て、新聞の広告図案を作成する仕事を得た。いったんは兵隊として戦争へも行くが、戦後は再び広告図案作成に復帰し、その後作家となった。デビューの時期は遅く、40歳を超えていた。人生のどの時期においてもスポーツを楽しむ余裕などなかったのだ。そのため若くしてちやほやされるような文化人のたぐいに対し、快くは思っていなかった。彼は代表作『砂の器』に「ヌーボー・グループ」と呼ばれマスコミにちやほやされる文化人たちを登場させている。
ヌーボー・グループは、既存の価値観を否定する30歳手前の芸術家たちの集まりである。作中の会話で「進歩的な意見を持った若い世代の集まりと言った方がいいでしょうか。作曲家もいれば、学者もいるし、小説家、劇作家、音楽家、映画関係者、ジャーナリスト、詩人、いろいろですよ」と説明されている。1950年代の「実験工房」や60年安保に反対を表明した「若い日本の会」辺りを意識していたのだろうか。ちなみに、『砂の器』の主要登場人物である和賀英良のモデルは、現代音楽家の黛敏郎といわれている。五輪当時の黛は35歳、清張は54歳だった。
黛は東京オリンピックの開会式で注目を浴びた芸術家のひとりだ。彼が手がけた電子音楽が、広い国立競技場内を昭和天皇が歩いて移動する間に流された。天皇が席につくと君が代の演奏が始まるのが当時の天覧試合での決まりごとだったが、国立競技場が広過ぎたこともあり、間をもたせるためにこうした構成になったようだ。NHKが協力して全国各地の寺を回り、鐘の音をサンプリングしてつくった電子音楽。サンプリングした音源を作品に活かすというのはいまでは当たり前の手法だが、当時は現代音楽の分野でしか使われていないものだった。ただ、これのどこが音楽なのか理解できないという声も多かったという。
同じく若手文化人の代表格だった大江健三郎は、当時28歳。東大在学中に芥川賞を受賞した。大江も五輪が開催されると神宮外苑の国立競技場に招待され、観客席に座っていたひとり。清張とは視点が違えど、大江もまた五輪を批判していた。人々がテレビやラジオで五輪に夢中になる様子を「われら消費文明ロボット」と皮肉を込めて書いている。“われら”というのは、そこに自分も含めているわけだが、普段は善良な市民がいざ戦時となると集団狂気に捉えられる日本人という意図が込められている。まだ敗戦から20年も経っていなかった。
当時の若手文化人には、前衛であるかどうかも問われていた。前衛には、「最先端」の意味もあるが、共産主義用語における前衛は、「革命の最前線を文化・芸術が担う」という意味だ。小説も演劇も詩も映画も前衛であるかどうか、つまり社会批判的かどうかが常に問われるものだった。エリート意識、生活保守的な大衆に批判的かどうか。その辺りのニュアンスを清張は嗅ぎとりながら、若手文化人をヌーボー・グループとして小説に登場させたのだ。
スポーツを堪能した、ブルジョワ層の加山雄三。
さて、前衛と最も離れた場所にいたのが加山雄三だ。彼も音楽家であり、作詞家であり、映画俳優。マルチな才能をもったアーティストだが、どれだけ彼がその分野で活躍しようが、若手文化人とは呼ばれない。彼自身が真逆、つまり消費社会(アメリカ的価値観)を体現するような存在だったからだろう。加山といえば、スポーツである。
「ほほ俺は ほほ若大将 ぼうや育ちだけれど 甘く見るなよ」(作詞/青島幸男 )というのは、『日本一の若大将』主題歌の歌詞。坊や育ちのボンボンがスポーツで活躍するというのが若大将シリーズ。松本清張が主張する「青年時代に若い人でスポーツ好きなのは、たいてい大学生活を経験した者」という指摘は、まさに加山雄三に当てはまる。
『日本一の若大将』では、大学マラソンが描かれる。ユニフォームは、銀座のスポーツ用品店で特注。ユニフォーム以外は、小型クルーザーを売っている富裕層向けのショップで揃えている。合宿先は箱根の芦ノ湖。別荘が多く立つ場所で、若大将は水上スキーの大会に飛び入り参加して活躍する。マネジャーの青大将(田中邦衛)は父親が大企業の役員で、勝手に父親の金で例のクルーザーを買ってしまい、それがバレて家を勘当になる。そして若大将は、実家の祖母から借金をしてクルーザーを買い取る。代金400万円。大卒初任給が1万5700円だった時代にこの額をポンと出す。若大将の実家は老舗のすき焼き店であり、驚くほどのブルジョワ生活で前衛らしさのかけらもない世界だ。
映画で神宮外苑が描かれるのは、終盤のマラソン大会当日の場面。スタート地点は、神宮外苑の絵画館前である。選手たちは青山通り方面に飛び出していく。1964年の東京五輪では新宿方面に向かうので、それとは違ったコースをたどる。映画に映る青山通りの様子は、いまとは随分と異なる。道幅は広く、映ってはいないがまだ路面電車が走っていた時代。道沿いにファッションビルなどもない。
ゴールの場面で再び、国立競技場周辺に戻ってくる。競技場から近い中央線が走るガード下は外苑橋と呼ばれ、ここから競技場までの道は内外苑連絡道路。神宮外苑が立派な森であることがわかる鬱蒼とした緑で覆われている。都心とは思えない風景だ。カーブを曲がれば国立競技場まで一直線だが、残念ながら肝心の競技場の外観までは撮影許可が下りなかったようで、別の場所が使われている。当時の国立競技場がスタンドの増築工事を行っていた最中だったのか、マラソンスタート直後の場面でちらっと映るだけだ。
当時大学生役を演じることができる年齢だった加山雄三も、いまや80歳を超えている。2020年大会では、聖火ランナーに抜擢。かつて映画で走った神宮外苑を走ってくれればいいが、彼は神奈川県代表。生まれ故郷である湘南の海辺を走るのだろう。三波春夫版がヒットした『東京五輪音頭』の2020年版を担当して歌ってもいるが、そちらはあまり話題を呼ばなかった。
松本清張が自分とは関係ないものと断言した時代に比べると、現代のスポーツは庶民のものになった。ホイチョイ・プロダクションズが80年代に手がけた作品による影響もあっただろう。前衛だからオリンピック反対という声はないだろうが、やはり文化人たちが東京五輪を批判するのはいまも昔も変わらず。ネット上でも五輪嫌い派を後押しする。ただ今回は、みなの好き嫌いを超えたところで新型肺炎ウイルスが世界的に蔓延し、開催が延期。いったいどうなるのだろう。