ライターの速水健朗さんが、過去のドラマや映画、小説などを通して東京の埋もれた歴史を掘り起こす。2020年の東京オリンピックを目前に控え、注目を浴びる外苑エリア。この地の知られざる歴史をひも解く。
東京のランドマークのひとつにも挙げられる、神宮外苑の銀杏並木。だが、実際にその成り立ちや独特な設計について知る人は少ないだろう。今回、速水さんが訪れたのは明治神宮外苑。実はこの施設を生んだプロジェクトが、史上最大規模の都市開発だったことを教えてくれた。
神宮外苑の造設は、史上最大規模のプロジェクトだった。
日本の並木道で最も多く用いられている街路樹は銀杏だという。銀杏が一斉に葉を黄色く染めるのは、冬の初め頃。ひと月にも満たない短い期間だろうか。視界のほぼすべてが黄色に染まる。銀杏並木が好きか、桜並木が好きか、意見は分かれるところかもしれない。
1990年代のフジテレビドラマには、やたらと神宮外苑の銀杏並木が登場した。当時のフジテレビドラマは、一種の都内名所ガイド的な役割を果たしていたのだろう。地方の高校生だった僕は、そんな場面をよく観ていた。思い出せる範囲だけでも『愛という名のもとに』『101回目のプロポーズ』『29歳のクリスマス』などがあった。ただ、実際にこの場所に来てみて気付いたことがある。まず、神宮外苑の銀杏並木は、歩道の両脇に銀杏の木が植えられていて4列であるということ。実は日本の並木道は、たいてい2列のコンパクト仕様である。外苑の銀杏並木は、その辺りの並木道とは違っていた。それが300m続き、正面に絵画館が立っている。
ここでビデオゲーム『シムシティ』が思い浮かんだ。ゲーム上で僕はよく並木道をつくっていた。
並木道は景観をよくするだけのものではない。防災の役割、大気汚染の浄化機能もある。銀杏は燃えにくく排気ガスに強いという性質をもっている。一方で、デメリットもある。葉の繊維が丈夫で腐りづらく、一度落ちたら道路にへばりつく。維持管理のコストがかかるから都市計画には向かないともいわれる。いまどきの財政難自治体からは、街路樹廃止論ももち上がりやすい。
もうひとつ気付いたことがある。紅葉シーズンの週末や、近くでビッグイベントが開催される時期を除いて、普段は人通りが少ない。『愛という名のもとに』の最終回には、この通りが多くの人で賑わっている場面が出てくる。しばらくすると、彼女はひとりになっている。そして、大学以来の仲間たちが次々と木の陰から現れる幻を見る。しかしドラマで形成されたこのイメージと異なり、実際には賑わっていることがまれだ。
交通量が少ない理由は、地図を見れば一目瞭然。ここを通る動線でしかたどり着けない重要施設がない。そもそも銀杏並木が300mの直線ということからもわかるが、まるで『シムシティー』で無理してつくった街のように見える。単に人工的というだけではない、どこか唐突な印象を受ける。
さて、神宮外苑は我が国の都市史上最大規模のあるプロジェクトの一環として生まれた場所だ。そのプロジェクト全体の規模は、総面積にして118ha。近年の再開発のha数を出してみると、六本木ヒルズが約11.6ha、豊洲市場が約40haだ。直近では山手線新駅高輪ゲートウェイ駅の開発で13ha。神宮外苑が青山という都心であることを踏まえるまでもなく、他に類を見ない規模の再開発だったのだ。
もったいつけたがこの大規模プロジェクトとは、明治神宮の創建のこと。明治神宮には、内苑と外苑がある。内苑は正殿や宝物殿といった神宮の建物だけでなく、広大な敷地の中に包括する森の空間も含まれる。外苑は、内苑の外に配した庭という意味である。ちなみに表参道も明治神宮内苑の正面にあたる参道として同時期に整備された道なのだ。そのことだけでもプロジェクトの巨大さを感じる。
当時の日本の神社は単なる宗教施設ではない。伊勢神宮を頂点とする神道の体系があり、それらは内務省神社局によって管理されていた、いわゆる“国家神道”。内苑は国家予算の一方、外苑は民間資金でつくられた。当時から外苑は、多くのスポーツ施設が集積する場所だった。いまとなってはこうしたスポーツ施設や会場、さらには銀杏並木のほうが公共性の高い場所のように感じられるが、大正時代の感覚では違ったのだろう。公と私の感覚が当時と現在で真逆に変わったのも面白いところ。
銀杏並木を4列で設計した、都市計画家の試み。
現在の外苑には、明治神宮野球場、秩父宮ラグビー場、テニスクラブ、リニューアルしたばかりのスケートリンクなどがある。「明治神宮外苑 ゴルフ練習場」は、2019年末の取材時にはまだ営業していたが、20年2月現在は閉鎖中。ここがオリンピックの後にどうなるか未定のようだ。
かつては国立競技場の目の前に「明治神宮水泳場(神宮プール)」があったが、現在ではその跡地に「三井ガーデンホテル神宮外苑の杜プレミア」が立っている。
明治天皇の崩御が1912年7月30日のこと。その後、墓陵は京都につくられるわけだが、当時の東京の経済人たちにはそれが不満だった。木造だった江戸の町が半世紀かけて近代的都市へと変化を遂げたのが明治期。明治天皇を顕彰する施設を東京につくることは、首都の強化につながるはず。それが京都に奪われるのだから、明治に生きた東京の財界人が苦々しく思うのにも頷ける。彼らが一致団結した結果、東京のど真ん中の巨大プロジェクトが動き始めた。
施設と言っても巨大建造物というわけではない。だからこそ明治神宮は、大規模都市計画といった印象が薄い。『明治神宮 「伝統」を創った大プロジェクト』(今泉宜子著 新潮社 2013年)という本がある。ここで書かれているのは、明治神宮が森であるという事実だ。日本各地から献木者を募り、彼らの自己負担で木を集めたという。都市計画の一環としての巨大建築物より、人工の森をつくるほうが当然スケールが大きい。そして明治神宮が鎮座したのは1920年。その森の完成には100年後が見据えられていたという。いまがまさに100年目の節目である。
東京は関東大震災後、第二次大戦後、そして1964年東京五輪開催と、どのタイミングでも急場しのぎ、急ごしらえの都市計画の積み重ねで現在に至っている。その東京において明治神宮だけが特殊でリッチな空間として残されているのではないか。以前の日本は、植民地をもつ帝国=大日本帝国だった。帝国の首都として帝都という呼び方がある。地下鉄やタクシーの社名を思い浮かべてしまうが、神宮外苑にはそんなリッチでゴージャスな“帝都感”が残る。外苑の銀杏並木を歩くと、帝都だった時代の東京をスケールとして感じることができる。ここが人工的で唐突な印象を受けるのも合点がいく。
前出の『明治神宮 「伝統」を創った大プロジェクト』には、外苑の銀杏並木が4列の豪華仕様になった理由も書かれている。明治神宮内外苑の計画推進に造園家・都市計画家として関わった折下吉延は、東京で「公園道路」を実現しようと考えた。「公園道路(フランス語で”ブールバール”)」とは、「車道と歩道を区別し、歩道の両側に立派な並木を植え、夏季には涼しき緑陰をつくり散歩に適するよう計画された、それ自体が公園になる道路」だという。まさに神宮の銀杏並木そのものだ。外苑の銀杏並木が4列に並ぶよう指示したのも、この折下吉延だった。彼がこれを言い出さなければ、『愛という名のもとに』のラストのシーンはなかった。銀杏並木の歩道を横並びで7人がふざけながら歩いてもまだ余裕がある。あのたっぷりの横幅こそが、帝国の規格なのだ。
都市計画家や造園家たちが手がけた帝都の手触りは、現在の神宮外苑と多くのフジテレビドラマに残っているといえよう。浜田省吾の『悲しみは雪のように』が聞こえてくる。