速水健朗の文化的東京案内。【深川篇③『洲崎パラダイス 赤信号』】

  • 文:速水健朗
  • 写真:柏田テツヲ
  • イラスト:黒木仁史
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2020年のオリンピックに向けスクラップ・アンド・ビルドを繰り返す東京を、ライターの速水健朗さんが案内。過去のドラマや映画、小説などを通して、埋もれた東京の歴史を掘り起こします。初回は深川エリア。アートシーンやサードウェーブコーヒーで盛り上がるこの地が、水辺を軸にどのような変遷をたどってきたのかひも解きます。この連載は毎月第1・第2・第3水曜、夜9時公開です。

速水健朗(はやみず・けんろう)●1973年、石川県生まれ。ライター、編集者。文学から映画、都市論、メディア論、ショッピングモール研究など幅広く論じる。著書に『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』などがある。

80年代のドラマ『男女7人夏物語』とウォーターフロント開発についてを語り、さらに90年代の東京都現代美術館(都現美)開館当時の様子やブルーボトルコーヒー上陸とサードウェーブコーヒーのブームに触れた速水さん。深川のここ30年についてをひも解き案内してくれました。

今回の深川案内で最後に足を運んだのは、都現美の隣に位置する木場公園のさらに先、東陽町。飲食のチェーン店やマンションが立ち並ぶ、比較的静かなエリアです。そんな雰囲気からは想像もつきませんが、ここは戦後間もない頃まで歓楽街として栄えていたそうです。東陽町3丁目を歩きながら、50年代のこの辺りを映した名作映画について速水さんが話し始めました。


【深川篇 ①『ロングバケーション』】はこちら

【深川編②『男女7人夏物語』】はこちら

運河の先に栄えていた歓楽街(『洲崎パラダイス 赤信号』)

くされ縁の男女を描いた白黒映画。テンポよく進む展開に加え、終盤に用意された予想外のサスペンスなど、終始目が離せない。『洲崎パラダイス 赤信号』(監督:川島雄三 1956年 制作、配給:日活)

川島雄三監督の映画『洲崎パラダイス 赤信号』が公開されたのは、1956年。主人公は行き場を失った若い男女である。男の名前は、義治。彼は勤め先の倉庫会社をクビになった。女の名前は、蔦枝。彼女は情けない義治に憤慨している。ふたりは勝鬨橋(かちどきばし)の上で口喧嘩をする。遠くには清洲橋が見えている。この映画では、橋がちょっとした意味をもつ。

女はバスに乗り、男も追う。降りるのは、洲崎弁天町。深川の海寄りの場所だ。現在の駅でいえば、東京メトロ東西線の木場駅が近い。この駅の開業は、1967年。当時は、永代通りをバスだけでなく、路面電車も走っていた。「こんなところで降りてどうするんだよ」と男。女は「どうするどうするって何度同じこと聞くのよ!」と返す。甲斐性がなく、行動に自発性も感じられない男に蔦枝はいらいらしている。ただ、彼女にはあてがないわけではない。洲崎は、彼女がかつて働いていた場所である。女は、娼婦の経験があった。自分ひとりならなんとでも生きていける。

東陽3丁目と1丁目の境と、大門通りが交わる場所に、「洲崎パラダイス」と派手に書かれたアーチがかつては立っていた。『洲崎パラダイス門』(写真:江東区教育委員会)

映画は、春を売る仕事の一歩手前で踏みとどまる女の物語を描く。舞台の洲崎は、四方を運河に囲まれている。『洲崎パラダイス 赤信号』には芝木好子による原作の短編小説がある。この文庫版の解説には、次のように街の説明が記される。「もともと洲崎遊郭であったこの地域は隅田川を越え東京湾に面する、埋立て地帯につながる入りくんだ運河に囲まれた島になっていて、下町の歓楽街であった」(『洲崎パラダイス』芝木好子 集英社 解説:大島清)。後の言葉であれば、ソープ街。もっと古い言葉であれば赤線や特飲街との呼び方があった。川本三郎は著書の中で洲崎がどのような場所だったか、「場末の埋立地で、吉原のようなはなやかさがなかったのだろう」と記している(『きのふの東京、けふの東京』川本三郎 平凡社)。客層も吉原とは違ったという。「女性は芸を売るよりも、ただ身体を売る。客は『半纏(はんてん)着』、つまり、労働者、職人が多い」ようだった。運河の外にはすぐ埋立地が広がっている。津波の被害も多かっただろう。

映画では「洲崎パラダイス」と大きく書かれたアーチが何度も映される。その手前には橋がかかっていて、たもとに「千草」という名の一軒の居酒屋がある。洲崎に遊びに来る客が、景気づけに一杯引っ掛けていく飲み屋だ。主人公の蔦枝は、この居酒屋に「女中求む」と書かれた張り紙があるのを見つけ、中に入る。そこで接客する仕事をもらい、住み込みとして働く。義治も一緒に住み、近所の蕎麦屋の出前の仕事を紹介される。

洲崎遊郭の入り口を前に踏みとどまる蔦枝と義治。橋のたもとの居酒屋「千草」を見つけて住み込み始める。(『洲崎パラダイス 赤信号』ⓒ日活)

蔦枝は、この店に顔を出していた神田のラジオ屋の落合という男としだいにいい関係になる。落合は洲崎に女を買いに来ているわけだが、娼婦ではない女を囲いたいという思いがあった。だから蔦枝を気に入る。原作小説に落合たちの会話の場面がある。彼は、神田川の水の産湯につかり、隅田川で泳ぎを覚えたという話をする。神田生まれの江戸っ子。つまり都会の子である。戦後にラジオが普及し、かなり羽振りもいい。それに対して蔦枝は、「こないだまであたしも隅田川のそばにいたんですよ。川って大好きさ、せいせいする。一度でいいいから川上から川下まで舟で行ってみたかった」と返す。これは彼女なりの見栄だ。蔦枝は、利根川の長い堤と川葦を見て育ったという。彼女にとっての川辺の生活はむしろ貧しさと結びついていた(戦争の最中だったこともある)。だがそれを隠し、「隅田川のそば」と都会暮らしをアピールしたのだ。同じ川辺の暮らしといっても、場所によって違う意味をもつ。

東陽3丁目の交差点。洲崎パラダイスが栄えていたのは、正面に見える道路の先だ。右側の蕎麦屋は、映画の序盤でもちらりと映っている「志の田そば」。
洲崎パラダイス手前の運河は現在埋め立てられ、遊歩道となっている。跡地として残された石碑が、この場所が橋であったことを示す。

『洲崎パラダイス 赤信号』(および原作『洲崎パラダイス』)は、水辺の都市に生きる人々の物語だ。冒頭とラストで橋(映画は勝鬨橋、小説は吾妻橋)が映されるのも演出的な意図である。橋の向こうとこちらを行き来する女の人生を切り取っている。

現在の洲崎には、当時の面影がほとんど残っていない。特飲街は、いわゆる赤線廃止後に急速に廃れた。映画の中でも既に不況が始まっていることが、登場人物たちの会話からうかがうことができる。朝鮮戦争の特需もやみ、もうすぐ売春防止法で赤線も廃止になることが決まっているのだ。

洲崎のシンボルだった入り口のアーチもとっくの昔になくなった。そして、かつて運河だった場所は、埋め立てられ、いまは遊歩道になっている。映画の中に映っている蕎麦屋が、かろうじて一軒残っているようだ。その店頭に、昭和初期の周辺の写真が掲げられているのが、当時を知るための唯一の手がかりである。

この50年で変化した川辺での暮らし。

水上バスや屋形船が行き交う隅田川の眺め。近年の東東京の再評価により、隅田川沿いの暮らしは大きく変化したといえる。写真:榊水麗

下町である深川。隅田川の流域の町。隅田川左岸。ここまで、ドラマや映画の中で描かれた深川を通し、そこに映る川辺の暮らしに触れてきた。ときには危険な氾濫を起こす川、文化の異なる両岸をつなぐ橋、川が見える場所での生活。東京のこの50年の変化が最も大きく表れた場所のひとつが隅田川沿いであり、それを代表する地域として深川を見ることができるだろう。


【深川エリア】

今回、速水さんに案内してもらった深川エリアを振り返ってみましょう。観ていた当時は意識していた人も少ないかもしれませんが、ドラマ『ロングバケーション』(①)の舞台となったのは 新大橋。隅田川をセーヌ川に見立てた脚本家の北川悦吏子と、それをもとにリサーチしたドラマのロケハンチームによりこの場所が選ばれました。そのロンバケより90年も前にその見立てをしていたのが、作家の永井荷風(②)も参加していた「パンの会」。隅田川に近い西洋料理店を巡っていた彼らが、最終的に落ち着いたのは永代橋のたもとにあった「永代亭」でした。

トレンディドラマの先駆けとなった『男女7人夏物語』。80年代のウォーターフロント開発を意識したドラマで、清洲橋(③)周辺の整備された遊歩道も映し出しています。そして深川(清澄白河)の第一の転機といえば、東京都現代美術館(④)の開館でしょう。もちろん数年前からのブルーボトルコーヒーに代表されるサードウェーブコーヒー(⑤)の盛り上がりも外せません。

映画『洲崎パラダイス 赤信号』で描かれたのは、いまはほとんど面影を残していない歓楽街の雰囲気。洲崎緑道公園の上を通る大門通りには、かつて「洲崎パラダイス」と書かれたアーチ(⑥)が立っていました。水辺から大きな影響を受けてきた深川の地。埋もれたかつての街の様子や、最近の盛り上がりの契機など、この50年における深川の知られざる一面を目にしたのではないでしょうか。