表現も解釈もさまざまで「よくわからない」となりがちな現代アート。そこで、第一線で活躍するアーティストを講師に迎えた講座を開設。彫刻家の小谷元彦に、彫刻作品の見方を紐解いてもらう。
現代アートのシーンで、次世代の作家たちが面白い。新時代のアーティスト38名の紹介に加え、足を運ぶべき展覧会やアートフェア、さらに現代アートを楽しむための基礎知識まで話題を広げた、ガイドとなるような一冊。2025年は、現代アートに注目せよ!
『2025年に見るべき現代アート』
Pen 2025年3月号 ¥880(税込)
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1972年、京都府生まれ。97年に東京藝術大学大学院を修了。現在は同大学の教授も務める。失われた知覚や変容を幻影として捉え、覚醒と催眠、人間と非人間など両義的な中間領域を探求。数々の国際展に出品する。2025年は瀬戸内国際芸術祭に参加するほか、展覧会も開催予定。 photo: Takumi Nemoto

三角形の顔を持つ土偶と半跏像を合体させた作品。手足は切断され、小谷のコンセプト「ファントム・リム(失った身体の部位が存在しているように感じる現象)」も思わせる。2023-24年 リン青銅鋳造、アルミ鋳造、ステンレスにカシュー、ウレタン塗装 photo: Hidehiko Omata
彫刻は近くでつくるか、遠くからつくるかで作品の焦点距離が変わる
まず「彫刻とはなにか」という話を始める前に、みなさん忘れがちなことがあります。博物館にある縄文時代の土偶や古墳時代の埴輪、運慶・快慶など仏師たちが残した寺院の仏像、そして現代、多くの人が買うようになったフィギュア──。こうしたものも全部、彫刻なんです。そう考えたら、彫刻は何千年も前からずっと人気がある造形表現であり、本当はすごく身近に存在しているものだと言えるでしょう。
ただ、“美術”において、彫刻という概念が日本で生まれたのは明治時代になります。ヨーロッパから近代彫刻が入り、“彫刻”という言葉が使われ始め、「彫刻とはなにか」が定義されていきました。なお、その概念形成の中心になったのは、東京美術学校(現・東京藝術大学)の先生など、少数の特定の人たちです。また、当時までの廃仏毀釈や文化政策などの影響もありました。だから、いま思えば「これも彫刻と言えるよね」というものが、ずいぶんこぼれ落ちてしまっているところもあります。仏像についても、岡倉天心やアーネスト・フェノロサがそこに日本の伝統的な美を見出さなければ、日本の彫刻のメインストリームにならなかったとも言えます。つまり、彫刻の価値は後になって判断されることも多く、いま、それが彫刻かどうかを問うことは、あまり意味がないことかもしれません。


鎌倉時代の仏師、運慶・快慶ら慶派一門が手掛けた、筋肉隆々の金剛力士像。東大寺の再建の際、重源上人が南大門に納めるためにつくらせたと言われる。像高はいずれも8.4m弱。 1203年 提供:東大寺
一方、現代美術の展覧会を見ていると、いわゆるオーセンティックな彫刻作品の展示は右肩下がりに減っているのも事実です。同時に、マシュー・バーニーのように、彫刻もつくるけど、映像や写真を使ったりインスタレーションとしてオブジェを見せたりする作家が増えています。
ただ、それは現代に限ったことではないというのもポイントです。というのも、モダンマスターと呼ばれるオーギュスト・ロダンや、コンスタンティン・ブランクーシ、メダルド・ロッソなども、彫刻だけに向き合っていたわけでなく、共通して“写真”に触れていました。たとえば、ブランクーシやロッソは自身の作品やアトリエの風景を自分で写真に収めています。ロダンは自分で写真を撮りませんでしたが、ウジェーヌ・ドリュエ、エドワード・スタイケンに自分の作品を撮らせ、写真作品を量産していました。彼らは彫刻が置かれている空間の状況、光の当たり方、作品をどの視点で見るかを当時の新しいメディアである写真を通じて探求していたわけです。そうやって彫刻は、他のメディアと混ざりながら新しくなってきたところもあり、当然、彫刻家は映像が生まれれば、映像の中で彫刻的な表現を考え、VRが登場すれば、その関係の中で彫刻の在り方を考えるわけです。さらに歴史をたどれば、彫刻は建築の装飾物であり付属物でありました。最初からなにかと混じり合って存在してきた芸術であることも彫刻の特性なのかもしれません。

ロダンがエドワード・スタイケンに撮らせた1枚(左)。ロダンと『考える人』、そして奥には、『ヴィクトル・ユゴーの記念碑』が映る。右は、『考える人』の像。 1905年ごろ © GrandPalaisRmn (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski /distributed by AMF-DNPartcom
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また、彫刻が“存在”と直結する芸術であることもひとつの面白さです。たとえば、神や仏など見えないものをこの世の中に引きずり出して、かたちを与える役割を担ってきました。彫刻をやっていると「あるけどない」「ないけどある」という二項対立の矛盾に、向きあわざるを得ないところもあります。その点から彫刻の見方を言えば、その存在の不確かさも、彫刻的な魅力になりうるのかもしれません。かつて人々は、薄暗い空間の中に置かれた仏像を、手に持った小さな灯火で照らして拝んでいたわけで、そのあえて「見えにくい」という中間領域も、もしかしたら重要だったのかもしれないということです。
さらに、彫刻が仏像のように、ある種モニュメントとして発展してきたことも特筆すべきでしょう。ただ現代美術では、彫刻であってもそれが恒久的に置かれるとは限らない。つまり、仮設的になっているわけです。では現代においてモニュメントはどうあるべきか、その概念そのものを更新していくことも現代彫刻の課題のひとつでしょう。
なお、彫刻においてスケール感も重要だとも言われますが、僕は、大きさそのものよりも、それが生み出す“距離感”のほうが、彫刻の重要なファクターだと考えます。つまり、大きな彫刻では、作家は時折、対象から退いて全体像をつかみながら造形を進めていく。一方、小さな彫刻ならば、つくり手はその対象を手に持って彫ったり色をつけたりする。作品には、その作家が対象をどの距離感でつくり込んでいったか、ある種の距離設定があるわけです。だから、近くで見るか、遠くから見るか、その中間で見るかで、作品の解像度のようなものは変わってきます。ひとつ面白い例を挙げれば、リチャード・セラの巨大な金属板の作品。これは、近づくと素材の厚みだけでなく、酸化していく金属の表面を絵画的に感じ取れ、少し離れると抽象的なかたちが見えてきて、さらに距離をとると建築的なスケール感を体感させます。距離によって見えてくるもの、感じるものが違う、彫刻を堪能できます。

ビルバオ・グッゲンハイム美術館に常設されているリチャード・セラの作品。湾曲した金属板の周りを鑑賞者は行き来できる体感型のインスタレーションでもある。1994-2005年 ©Aflo ©2024 Richard Serra / ARS, NY/ JASPAR, Tokyo E5838
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