Pen本誌では毎号、作家・小川哲がエッセイ『はみだす大人の処世術』を寄稿。ここでは同連載で過去に掲載したものを公開したい。
“人の世は住みにくい”のはいつの時代も変わらない。日常の煩わしい場面で小川が実践している、一風変わった処世術を披露する。第26回のキーワードは「ひねくれ方の変遷」。
僕は生まれてからこの方(そしておそらくこれから死ぬまで)、自他ともに認める「ひねくれ者」なのだが、実は「ひねくれ方」にも変遷があったりする。
子どもの頃は、「間の抜けたひねくれ者」だったと思う。間違いなくひねくれ者ではあるのだが、ひねくれ者としての自覚が足りないというか、頭の使い方に甘いところがあって、完全にひねくれることができずにいた。たとえば母親から「テレビゲームは1日30分以内にしなさい」と言われると、僕は「なぜ?」と聞き返し、「他の家庭でもそうしていること」が理由だった時などは、「じゃあ他の家庭では毎日朝食に味噌汁が出るのでうちでも出してほしいし、他の家庭では習い事に送り迎えがついているのでうちでもそうしてほしい」などと言って、共働きで時間のない母親の弱みにつけこんだりしていた。当時から僕は「みんなやっている」とか「他ではそうしている」とか、そういった理由によってなにかを命令されることが大嫌いだったので、ひねくれ者と呼ばれることは多かったけれど、とはいえひねくれ方に関する知識不足のせいで少し間の抜けたところもあった。
もう少し成長して青年期になると、ひねくれ方にも深みが生まれてきて、たとえば「チョコレート業界の都合でつくられたバレンタインデーを祝う意味があるのか」とか考えるようになり、ひねくれ者としての精度が上昇していった。それまで友人と無邪気にチョコの数を競っていた小川少年が、「チョコの数を競うこと自体、大企業によってつくられた虚構に踊らされている」などと主張するようになっていく。
ひねくれ方のコツというか、ひねくれ者としての僕を大きく成長させてくれたのが、大学のサッカーサークルの同期だった小野という友人だ。彼はサークルの対抗戦の試合中にブツブツとひとりでなにかにキレていて、試合中は敵チームの誰かに怒っていることが多いのだが、どうやら味方にもキレていた。小野がブツブツ言っている内容をよく聞いてみると「お前ら誰かがシュートを打つと『ナイシュー(ナイスシュートの略)』って言ってるけど、シュートには本来『いいシュート』と『悪いシュート』の2種類があって、味方が『悪いシュート』を打っているのに『ナイシュー』と言うのは思考停止じゃないのか?」とキレていた。僕はそれを聞いて、試合中に腹を抱えて笑ってしまった。確かにサッカーには味方のシュートに「ナイシュー」と声をかける文化があるが、それは思考停止なのかもしれない。
それ以来、僕は文化や慣習や日常の中にある「思考停止」をも疑うようになり、「誰でも生きているだけで迎えることができる誕生日になんの価値があるのか」「暦という恣意的なシステムが更新されるだけの正月になんの価値があるのか」と、応用編のひねくれ方をしていくようになる。「ひねくれ過激派」だった頃の僕は、就職した友人と仕事後に飲んだ時、「1杯目はとりあえず生
ビールで」などと言って生ビールを飲むことにも「思考停止だ」と腹が立っていた。
で、そんな時期を過ごしているうちに、ひねくれ者にも傾向というか、共通の特徴のようなものがあるような気がしてきて、世に大勢いる「俺、ひねくれてるんですよ」などと自己紹介する、自称ひねくれ者と自分が似ていることが無性に恥ずかしくなってきた。音楽や映画の流行に乗ることが思考停止なら、「大衆向けだ」と無批判に貶す仕草そのものも思考停止に思えてきたのだ。というわけで、いまの僕はひねくれ者すらも嫌悪する「ひねくれ界のひねくれ者」という、意味不明な人間になっている。
小川 哲
1986年、千葉県生まれ。2015年に『ユートロニカのこちら側』(早川書房)でデビューした。『ゲームの王国』(早川書房)が18年に第38回日本SF大賞と第31回山本周五郎賞受賞。23年1月に『地図と拳』(集英社)で第168回直木賞受賞。近著に『スメラミシング』(河出書房新社)がある。※この記事はPen 2025年2月号より再編集した記事です。