はっぴいえんどがいまなお伝説的存在として語り継がれるのは、日本語のロックを完成させたからだ。
音楽の地平を切り拓いてきた細野晴臣は、2024年に活動55周年を迎えた。ミュージシャンやクリエイターとの共作、共演、プロデュースといったこれまでの細野晴臣のコラボレーションに着目。さらに細野自身の独占インタビュー、菅田将暉とのスペシャル対談も収録。本人、そして影響を与え合った人々によって紡がれる言葉から、音楽の巨人の足跡をたどり、常に時代を刺激するクリエイションの核心に迫ろう。
『細野晴臣と仲間たち』
Pen 2024年1月号 ¥990(税込)
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英米のロックのなぞりに不満を抱いた、細野と松本
日本のロック史を紐解けば、英米のロックをなぞり、英語で歌うことが主流だった時代が最初にあった。1960年代末頃に登場したいくつかのバンドは、本格的なロックのサウンドを鳴らしながら、そこに英語の歌詞を乗せて歌った。細野晴臣がプロデビューを果たしたバンド、エイプリル・フールもそのひとつだ。
彼らは英米のサイケデリックロックに強く影響され、高い演奏力を誇るバンドだった。けれどもライブで演奏するのは、ドアーズやクリームといったバンドのカバーで、もちろん歌詞は英語だった。アルバム『エイプリル・フール』のために、英語詞のオリジナル曲を録音したものの、ライブでは相変わらずカバー曲ばかりだった。
その状況に不満を抱いたのが、バンドのベーシストだった細野と、ドラマーの松本隆である。細野と松本はアマチュアバンドの頃からともに活動し、プロにスカウトされた細野が松本に声をかけ、彼をプロの世界に引き込んでいた。実はこのアルバムで、松本は日本語詞の曲「暗い日曜日」を作詞していた。まだアマチュアだった頃に、彼は細野の薦めで詞を書き始めていたのだ。しかしこの曲もライブ演奏の機会に恵まれることはなかった。
そういった不満が、バッファロー・スプリングフィールドのようなルーツに根ざしたロックをつくりたいという、細野の考えにつながった。そして日本語詞を書きたいと考えていた松本が彼に同調した。やがて細野の茶飲み友だちだった大瀧詠一が加わり、セッション仲間だった鈴木茂が誘われ、はっぴいえんどが結成される。
ロックのサウンドと、日本語の歌詞を探求し、オリジナルの音楽をつくり出すこと。彼らは1枚目のアルバム『はっぴいえんど』でそのテーマに着手し、かなりの成果を挙げた。だが細野にとっては、自身の曲づくりと歌唱に課題が残った。続く2枚目『風街ろまん』が完成形だった。このアルバムには借り物でない、自らのルーツを掘り下げた、はっぴいえんど独自のロックが記録されている。土台となったのは、既に失われてしまった東京の風景―風街のイメージだった。
しかし『風街ろまん』は、ある部分においてはもうロックアルバムではなかった。細野が曲づくりと歌唱に手応えを得た「風をあつめて」は、その頃アメリカに登場したシンガー・ソングライターたちに感化され、生み出した曲だった。細野の関心は、早くもロックのその先へ向かっていたのだ。日本語によるロックを開拓したはっぴいえんどは、3枚目にリリースされたアルバム『HAPPY END』を最後に解散する。
Symbolic Works
『エイプリル・フール』(エイプリル・フール)
1969年 日本コロムビア
ブルースが基盤のサイケデリックロックは重厚。このファーストの発表時点でバンドの解散は決まっていた。
『はっぴいえんど』(はっぴいえんど)
1970年 ユー・アール・シー・レコード/ソニー・ミュージックレーベルズ
はっぴいえんどの中で最もロック色の濃厚な1枚目。大瀧は激しくシャウトし、鈴木のギターが重く歪む。
『HAPPY END』(はっぴいえんど)
1973年 キングレコード
ロサンゼルスでのレコーディングを敢行。メンバーのその後を示唆し、サウンドはロックにとどまらない。
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