Pen本誌では毎号、作家・小川哲がエッセイ『はみだす大人の処世術』を寄稿。ここでは同連載で過去に掲載したものを公開したい。
“人の世は住みにくい”のはいつの時代も変わらない。日常の煩わしい場面で小川が実践している、一風変わった処世術を披露する。第25回のキーワードは「面白くない話」。
大学1年生の4月、必修の英語の授業でたまたま隣に座っていた男ふたりと、授業後に3人で学食へ行くことになった。当時の僕はまだ新しい環境に馴染めていなくて、大学内に友だちだっていなかった。こういうチャンスをモノにしなければ大学生活は孤独で惨めなものになるかもしれない――うっすらそんなことを考えていた。
僕たち3人は共通の話をしながら昼ご飯を食べていた。その間ずっと、僕の中に違和感のようなものがあった。言葉にできないけれど、なにかおかしい気がする。妙だ。これまで、こんな感覚を抱いたことはない。
違和感が明確になったのは、昼休みの時間が終わりに近づき、次の授業に出席する人たちが学食から出ていき始めた時だった。一緒にご飯を食べていた男のひとり(便宜上「男A」と呼ぶ)が「あー、次のスポ身めんどくせー」と言った(「スポ身」とは「スポーツ・身体運動実習」の略で、要は体育の授業のことだ)。
もうひとりの男(便宜上「男B」と呼ぶ)は「たしかにダリイな。腹一杯食べた後にテニスって(笑)。サーブと一緒に吐いちゃうよ(笑)」と返した。
男Aは「吐いちゃう吐いちゃう」と笑い、「どうする? サボってたこ焼き食いにいく?」と聞いた。
男Bはそれに対し「たこ焼きは無理寄りの無理(笑)」と言い、Aは「それってただの『無理』ってことじゃん」と腹を抱えて笑い始めた。
ふたりの会話を横で聞いていた僕は、「小川はどうする?」という男Bの問いかけに「俺は出席してくるわ」と言ってその場から去った。学食からスポ身の授業場所に向かいながら、僕は違和感の正体が「会話が面白くないこと」だと気付いた。
一度違和感の正体に気付くと、それまでに彼らとしていた会話の節々に「面白くなさ」が隠されていたことを認識した。たとえば食事中、誕生日の話になり、男Bは「俺はよいトマトの日」と言った。男Aが「『よいトマトの日』っていつだよ(笑)」と聞くと、男Bは「4月10日で20歳になっちゃったんだよ(笑)。俺ももうおじさんだな(笑)」と答えていた。
「小説がうまくなるためには、なにをすればいいのですか?」と聞かれた時、僕はたまに「つまらない小説をたくさん読むこと」と答える。つまらない小説を読んで、その小説のなにがつまらなかったのかを考えてみる。もしその小説の世評が高かったなら、勉強できることはより増える。自分が「つまらない」と感じた理由を「面白い」と感じる人が数多くいるのかもしれないし、自分の能力が足りなくて「面白さ」を感じ損ねているのかもしれない。
男Aは「たこ焼きは無理寄りの無理」という言葉に爆笑した。「〇〇寄りの△△」という表現は、「普通寄りの好き」や「5点寄りの4点」など、数直線上の2点間における位置関係を意味することが多いのにもかかわらず、男Bが1点しか示さなかったことによる意外性が理由で笑ったのだろう。僕が笑わなかったのは、こういう表現においてあえて1点を示すことが手垢の付いた方法で、意外性を感じなかったからだ(もっと言うと、意外でないことに意外性を見出している感性を「つまらない」と感じた)。
「面白さ」を追求するのは険しい道のりだ。たった一度の「つまらない」が、他の「面白い」をかき消してしまうことがあるからだ。「面白い」もののためには、まず徹底的に「つまらない」を避けることが大切で、そのためになにが「つまらない」のかを真剣に分析してみてほしい。
小川 哲
1986年、千葉県生まれ。2015年に『ユートロニカのこちら側』(早川書房)でデビューした。『ゲームの王国』(早川書房)が18年に第38回日本SF大賞と第31回山本周五郎賞受賞。23年1月に『地図と拳』(集英社)で第168回直木賞受賞。近著に『スメラミシング』(河出書房新社)がある。※この記事はPen 2025年1月号より再編集した記事です。