「大人の名品図鑑」山形のニット編 #1
寒い冬に日常着として活躍するニット。山形県は日本のニット生産の“聖地”と呼ばれ、この地で生産された本格的で良質なニット製品が注目されている。近年ではオリジナルブランドが生まれたり、ショップの展開も見られ、今後の発展が大いに期待される。今回はそんな山形生まれのニットを集めてみた。
日本繊維輸入組合が発表した数字によれば、2022年に日本に供給された衣料品のうち国産品が占める割合はわずか1.5%で、それ以降も生産縮小に歯止めがかかっていないと伝えている。冬のワードローブに欠かせないセーターなどのニット類は、それよりも少なく1%以下しか国内で生産されていないと言う。そんな状況の中、日本の東北地方の山形県で生産された良質なニットが近年、話題を集めている。『Pen』2024年11月号で取材した、山形県寒河江市に本拠地を構える佐藤繊維もそのひとつだ。
ニットといえば、多くの人がウール素材の製品を思い浮かべるだろうが、そもそも明治時代になるまでウールの原毛が採れる羊は日本では飼育されていなかった。佐藤繊維の社長、佐藤正樹さんは「明治時代、政府は東北で毛織物産業を起こそうと羊を多数輸入したが、東北地方は平坦な土地が少なく、羊をまとめて飼育することが困難だった。そこで絹生産のために蚕を飼っていた農家それぞれに1〜2頭の羊を飼ってもらい、その羊から採れた原毛を集め、手編み用の毛糸にした。これが佐藤繊維の始まり」と語る。
ウェブマガジン『料理王国』で菊池一弘さんが2020年に書いた記事に、それを裏付ける話が掲載されている。明治政府は寒冷地での戦争に備え、毛織物で軍服をつくるために羊毛や毛織物を輸入するだけでなく、「羊毛の国産化」を思い立つ。それを決定づけたのが日露戦争。零下30度の極寒の地でロシアと戦ったことから羊毛の必要性を実感、明治41年に北海道に牧場も建設した。
第一次世界大戦が始まると英国が軍事物資である羊毛の輸出を禁じたことから、政府は1918年(大正7年)に「緬羊百万頭計画」(緬羊は羊の別名)を立て、国内の羊飼育数を25年で百万頭にすることを目論むが、それも失敗に終わったと書かれている。しかし戦後の食糧難と衣類不足で羊の国内飼育熱が高まり、政府が目指した大規模飼育ではなく、1戸あたり1.4頭という羊の飼育が日本全国で行われていたと書かれている。佐藤さんの言った通りで、こうして山形で羊の飼育が始まったのだろう。
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佐藤繊維のオリジナルブランド「991」とは
佐藤さんの曽祖父が佐藤繊維を起こしたのは1932年。まだ手で糸を紡いでいた時代だ。祖父がそれを工業化し、紡績工場を建設した。父の時代にはこれからは糸づくりだけではいけないとニット製品の製造も始めた。つまり佐藤繊維は古くからウール等の紡績からニットの生産まで手掛ける、日本でも数少ないメーカーのひとつだと断言できる。しかしながら4代目の佐藤さんが会社を継いだころは、山形や日本のニット産業は衰退期に入り、多くの会社が生産拠点をアジアに移動し、最盛期には400社あった山形のニットメーカーも20数社に激減、ニットの国内製品への需要も減った。
そんな厳しい状況の中、佐藤さんが目を向けたのは海外。原毛を採れる世界中の産地に自ら足を運んで良質な糸を紡績した。「トレンドは追いかけない。唯一無二の糸を紡ぐ」。これが佐藤さんのものづくりのポリシーだが、そんな情熱が伝わったのだろう、海外の展示会に出展すると佐藤繊維がつくった個性豊かな糸は注目を集めるようになり、有名メゾンからの注文が直接山形に届くようになった。
991(キューキューイチ)は紡績ニットメーカーとしての長年の糸づくりやニット製作を通して培った技術やアイデアを結集した、佐藤繊維のオリジナルブランドだ。デビューは2016年で、コンセプトは「NEW CLASSIS」。ベーシックなデザインと最新のテクノロジーを組み合わせたコレクションで、オリジナルの糸づくりから新しい編地の開発、さらには従来のニット製品ではなし得なかった布帛のパターンを追求した縫製など、世界中のウールを熟知する佐藤さんの渾身の作品で、内外で高い評価を得ている。数字を用いたブランド名は山形県寒河江市のポストコード、つまり郵便番号で、佐藤さんの地元・山形に対する想いが込められているようだ。
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