本当の贅沢とは何か——。その問いを胸に、初めてAMANの扉を叩いた。これまで敬遠してきた理由は、その名が持つあまりにも高級なイメージに圧倒され、自分には縁遠い場所だと感じていたからだ。ラグジュアリーホテルの経験がない私にとって、その特別な世界観はどこか遠い話のように思えていた。しかし実際に足を踏み入れた瞬間、静かな空気と自然の調和に触れ、その先入観は音もなく崩れ去った。そこには、さりげない気配りと、土地の文化を大切にする温かなホスピタリティが広がっていた。
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静寂に包まれる王族の迎賓館で
日本からカンボジアへは直行便がない。ベトナムでの乗り継ぎを経て、シェムリアップの空へと向かう旅は、期待とともに7時間の時を刻んでいった。機内の窓からシェムリアップの街が見えてきた時、私は思わず息を呑んだ。どこまでも続く緑の大地が、夕暮れのやわらかな光に包まれている。その中を茶色い一筋の道が蛇行しながら伸び、時折赤土の空き地が不規則な模様を描いていた。かつてアンコール王朝が築いた壮大な王国は、今や静かな熱帯雨林の下に眠っている。
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40分ほどで街の中心部に到着。クメール文字だけが刻まれた控えめな表札の前でクルマが止まる。ここがアマンサラか。24室だけの小さなリゾートは、賑やかな表通りからは想像もつかない場所に佇んでいた。白壁に囲まれた敷地に入ると、街の喧騒が嘘のように消えていく。夕暮れ時の斜光が、プールの水面を黄金色に染め上げていた。「これが、シアヌーク国王のゲストハウスだった場所です」。案内してくれたスタッフの声には、どこか誇らしさが滲んでいる。1960年代、独立間もないカンボジアの希望に満ちた時代。この地を訪れた要人たちは、ジャッキー・ケネディを含め、この静謐な空間で憩いのひとときを過ごしたという。
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夜のダイニングルームは、まるで時が止まったかのような空気に包まれていた。円形の空間に置かれたテーブルには、白い布が月光のように輝いている。かつて王族専用の食事処だったこの場所で、今、モダンな解釈を加えた料理の数々が供される。カンポット産の胡椒を効かせたブラータチーズに始まり、レモングラスの香る黒鶏のコンソメスープ。メインには、ワサビレモンクリームを添えたマグロのロイン。繊細に火入れされた魚は中心がルビー色を保ち、添えられたアスパラガスとローストポテトが彩りを添えていた。最後を飾る南瓜のダンプリングまで、どの一皿にも、シェフの創意と食材への敬意が感じられた。
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夜明けのアンコールワット、千年の時を歩く
翌朝、まだ星が瞬く午前5時。アンコールワットへと向かうトゥクトゥクが、闇を切り裂くようにして走り出す。濃紺の空気を裂いて進むその音だけが、眠りについた街に響いていく。アマンサラが手配してくれた日本語が堪能な同乗のガイドは、月明かりに照らされる道すがら、この地が経験した内戦の記憶を、淡々と語ってくれた。1970年代、クメール・ルージュによって多くの文化財が破壊され、知識人たちが命を落とした暗い時代。しかし、半世紀近くの時を経て、この街は静かに、しかし確かに、再生の道を歩んでいた。
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アンコールワットをはじめとするカンボジアの遺跡を観光するためには、「アンコールパス」と呼ばれる入場券を購入する必要がある。同行者たちと現地の販売所に立ち寄った際の一コマ。
ホテルから15分ほどの道のりを経て、遺跡に辿り着く。まだ見えぬ朝を待つ空の下、巨大な遺跡のシルエットが浮かび上がってくる。観光客の少ない裏手の参道で出合ったのは、アンコールワットの知られざる表情だ。ここには人影はまばらで、私たちの足音だけが闇に溶けていく。遺跡の正面に出ると、そこにはすでに日の出を待つ大勢の観光客たちの姿があった。やがて東の空が白み始め、千年の時を経た石壁が、橙色の光を帯びていく。刻一刻と変化する光の中で、巨大な伽藍は静かにその姿を現していった。
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その後訪れたタ・プローム寺院では、巨木の根が遺跡と一体となった神秘的な光景が広がっていた。かつて615人もの踊り子たちが暮らしていたという寺院は、今では自然の力強さを静かに物語る場所となっている。ガイドは「自然の力と人の営みの均衡が、ここには残されている」と言う。朝露に濡れた苔の香りを吸い込みながら、遺跡の奥へと分け入っていく。巨大なガジュマルの根は、まるで大蛇のように石壁を這い、時には寺院の屋根を突き破って天高く伸びている。石造りの回廊を歩みながら、私は自然と人工の境界が溶け合っていく様に、時の流れの不思議さを感じていた。
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朝の観光を終えると、アンコール遺跡の庭園内にひっそりと佇む、アマンサラのもう一つの隠れ家へ。クメール様式の伝統的な家屋は、古の王族が沐浴に使った池を臨む場所に建つ。この静謐な空間で、私たちは米麺作りを体験することになった。「私の祖母から教わった方法です」。地元のシェフが微笑みながら、しなやかな手つきで粉を捏ねる。前日からの仕込みで白玉のようなやわらかさに育った生地を、昔ながらの製麺機で細く伸ばしていく。炭火で沸かした湯で茹で上げられた麺は、日本の素麺に似た繊細な食感。蒸気の立ち上る厨房で、代々受け継がれてきた技が、今も確かに生きていた。
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午後はアマンサラに戻って寛ぐ。部屋には新鮮な季節のフルーツが用意されていた。大きな窓から差し込む陽光に誘われるように、ソファに身を沈める。75平米という空間は、遺跡観光の拠点として心地よいゆとりを持ち、ダークブラウンと白を基調とした落ち着いた内装が、静かな時間の流れを演出している。遺跡で汚れた靴は、スーツケースラックの下のカゴに入れておけば、いつの間にかきれいになって戻ってくる。さりげない場所に置かれた生花や、夕暮れ時に灯される照明まで、こうした細やかな心遣いに、アマンならではのホスピタリティを感じるひととき。
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陽が傾き始めた頃、アマンサラのゲスト専用ボート「アマンバラ」でトンレサップ湖へ向かう。まるで海かと見紛うほどの広大な湖面が、夕陽に染まっていく。この水上集落には、実に30万人以上もの人々が暮らしているという。2時間ほどのクルーズの間、湖上に浮かぶ家々の間を縫うように進んでいく。子どもたちが小舟を巧みに操って遊ぶ姿が目に入る。観光用の大型ボートではなく、少人数だけのプライベートな空間だからこそ気づいた。ここには、湖とともに生きる人々の確かな営みがあることに。水上生活者たちの暮らしを間近で見つめているうちに、夕陽は優しい光となって湖面を照らしていた。
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微笑む石仏と、伝統の癒しに触れて
3日目の朝は、トゥクトゥクでアンコールトムへと向かう。12世紀末のクメール王国の中心地、その南大門をくぐると、石橋の両脇に並ぶ神々の像が、悠久の時を経てなお、訪れる者を威厳をもって迎え入れる。バイヨン寺院では、至る所から微笑みかける巨大な四面仏の表情に、思わず足を止めた。朝もやの中、石に刻まれた表情の一つひとつが、まるで生きているかのようだ。タ・ケウ寺院では、ピラミッドのように積み上げられた石段の先に、かつての栄華の形が残されていた。
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午後は、ホテルでのハーブボール作りのマスタークラスへ。カンボジア産のイエロージンジャーやレモングラスなど、細かく刻まれた香り高いハーブが用意されていた。それらを白布で包み、紐で丁寧に縛り上げると、徐々に中のハーブが染み出してくる。「この組み合わせは、代々受け継がれてきた知恵なんです」。講師の言葉に、伝統医療の奥深さを感じる。古くから伝わるこのハーブボールは、温めることで香りが広がり、心身をリラックスさせてくれるという。30分ほどの体験だったが、手元から立ち上る香りに、土地の記憶が詰まっているようだった。クメールの人々が大切に守り継いできた知恵の一端に、触れることができた気がした。
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その後訪れたスパでは、生まれて初めてのトリートメントに、少しの緊張と期待を胸に受付に向かう。モノトーンで統一された静謐な空間で、「テンプル・ウォーク」と名付けられたフット&レッグトリートメントが始まる。ヒマラヤンソルトとクーリングジェルによるスクラブは、疲れた足に心地よい清涼感をもたらした。熟練のセラピストによる丁寧なマッサージは、足先からふくらはぎまで、すみずみにまで行き届く。施術後は、レモングラスティーとフルーツを前に、天然ハーブの香りに包まれながら、穏やかな時間が流れていった。
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最後の朝に見つけた、本当の贅沢とは
アマンサラ最後の朝は、7時からのヨガクラスで始まった。東の空が白み始める頃、宿泊棟の屋上に集まると、暁の空気はまだ涼しさを残している。インストラクターのしなやかな動きに導かれ、ゆっくりと身体を目覚めさせていく。時折、天を仰ぐポーズでは、青空に浮かぶ白い雲が目に入る。呼吸を整えながら、ここで過ごした日々を振り返る。高級なホテルという先入観は、いつしか消え去っていた。代わりに見えてきたのは、カンボジアの歴史に寄り添い、その文化を大切に守り続けてきた、静かな誇りだ。
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昼食は、シアヌーク国王が愛した1960年代のメルセデスベンツで、市内のレストラン「マリス」へ。白亜の建物に一歩足を踏み入れると、高い天井とグレーの石壁が、アンコール・ワット遺跡からインスピレーションを得た優雅な空間を作り出している。注文したのは、ココナッツクリームでじっくりと煮込んだビーフのサラマン。伝統的なクメール料理の復活と進化を目指す、シェフの想いが伝わってくる一皿だった。窓の外では、服屋やマーケット、コンビニが並ぶ街並みが、新しい時代の息吹を感じさせていた。
午後2時、チェックアウトの時が近づいている。荷物をまとめながら、窓の外を眺めると、庭の木々が陽光に映えていた。総支配人をはじめ多くのスタッフが見送りに現れ、まるで家族との別れを惜しむかのような温かな空気に包まれる。アマンサラは、シアヌーク国王の時代から半世紀以上の時を経て、今もなお新しい物語を紡ぎ続けている。本当の贅沢とは、そうして積み重ねられてきた時間の中に、自分だけの特別な一章を見つけることなのかもしれない。17時05分発のラオス行きの機内で、私は手帳に言葉を綴っていた。贅沢という言葉の意味が、少しずつ違って見えてきている——。
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アマンサラ(Amansara)
住所:Road to Angkor, Siem Reap, Cambodia客室数:24室(全室スイート)
アクセス:シェムリアップ国際空港より車で約60分
料金:1泊2名利用時 約$1,975〜(季節により変動)
https://www.aman.com/ja-jp/resorts/amansara