小説家、アイドル、政治家……つくられた人格を信じるな!【はみだす大人の処世術#22】

  • 文:小川 哲
  • イラスト:柳 智之
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Pen本誌では毎号、作家・小川哲がエッセイ『はみだす大人の処世術』を寄稿。ここでは同連載で過去に掲載したものを公開したい。

“人の世は住みにくい”のはいつの時代も変わらない。日常の煩わしい場面で小川が実践している、一風変わった処世術を披露する。第22回のキーワードは「幻想の人格」。

01_22_1.jpg他人から共通の知人に関する愚痴や悪口を聞かされることがある。「そうかなあ。僕はいい人だと思うけどな」と思うことも多い。「〇〇さんから急に怒鳴られた」「飲み会の場で〇〇さんに無視された」とか、僕自身が一度も怒鳴られたことや、無視されたことがない人のエピソードを聞かされる。いや、そんなことはない。〇〇さんは僕が挨拶をした時、朗らかな対応をしてくれた。

一方で僕はこうも思う。「以前僕が△△さんの愚痴を漏らした時、『△△さんはそんなことをする人じゃない』と反論された。人間というものは、相手によって態度を変えることもあるのだろう」と。

果たして〇〇さんはいい人なのだろうか。それとも、嫌なやつなのだろうか。

まず、「他人から聞かされる愚痴や悪口は、前後の文脈を省略していたり、当人にとって都合の悪い事実を隠していたりすることがあるので、そもそも鵜呑みにしてはいけない」という前提がある。「昨日、道を歩いていたら、突然近くの家から老人が出てきて『二度と俺の家の前を歩くな!』と胸ぐらをつかまれた」という話を聞いて、どう感じただろうか。「変な老人に絡まれて気の毒だな」と思うかもしれない。でも、その話には省略されている文脈があったとして、たとえば「道を歩いていた」のは午前3時で、横には酒に酔った数人の友人がいて、酔った勢いで老人の家に向かてロケット花火を打ちこんだのだとしたら、気の毒だと感じる対象は反転するだろう。ここまで極端ではないかもしれないが、他人から聞かされる愚痴や悪口には隠された文脈や事実が存在することもあって、僕の「そうかなあ。僕はいい人だと思うけどな」という感想のほうが正しいこともある。

しかし、そういった前提を度外視してもなお、やはり〇〇さんへの愚痴や悪口が正当であることもある。つまり僕の「いい人だと思うけどな」という感想が間違っている可能性も存在する。

人間はキャラクターを演じることができる。自分の悪い面を隠しながら、相手に好印象を持ってもらえるように――少なくとも悪印象を抱かれないように――振る舞うことができる。「できる」というか、大人になって、社会で生きていくために必須の能力のひとつだったりもする。たとえばこの文章を読んでいるあなたが、僕に対してどういう印象を抱いているのかはわからないが、僕という人間がその印象通りの人物であることは(おそらく)ない。1500文字のエッセイの中でなら、僕は僕自身の愚かな面や卑劣な面を隠すことなど容易だ。限られた時間の中であれば、いくらでも装うことが可能なのだ。一度会って、朗らかに挨拶してくれただけの人間が本当にいい人なのかどうかなど、わかるはずない。

とはいえ、「限られた時間の中であれば」と留保したように、人格を装うことにも限界がある。同じ家で暮らす家族や、毎日のように職場で顔を合わせる同僚には、どうしても悪い面が露呈してしまうだろう。それでも――その「悪い面」まで含めて――その人の人格を肯定することができるか、という地点に立ち、ようやく「いい人」だの「悪い人」だのという評価が可能になる。

小説家という職業は、作品という限定された場でしか読者と関わらないため、自身の人格を容易に装うことができる。小説家だけでなく、漫画家、ミュージシャン、アイドル、政治家も同じだろう。一度会っただけの人物を初対面の印象だけで判断してはいけないのと同様に、どれだけ作品に感動してもつくり手の人格に過度な期待や幻想を抱くべきではない、と思う。

小川 哲

1986年、千葉県生まれ。2015年に『ユートロニカのこちら側』(早川書房)でデビューした。『ゲームの王国』(早川書房)が18年に第38回日本SF大賞と第31回山本周五郎賞受賞。23年1月に『地図と拳』(集英社)で第168回直木賞受賞。近著に『君のクイズ』(朝日新聞出版)がある。

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※この記事はPen 2024年10月号より再編集した記事です。