10代20代の頃の「黒歴史」が持つ重要性【はみだす大人の処世術#21】

  • 文:小川 哲
  • イラスト:柳 智之
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Pen本誌では毎号、作家・小川哲がエッセイ『はみだす大人の処世術』を寄稿。ここでは同連載で過去に掲載したものを公開したい。

“人の世は住みにくい”のはいつの時代も変わらない。日常の煩わしい場面で小川が実践している、一風変わった処世術を披露する。第21回のキーワードは「黒歴史」。

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20代の頃、なにかの飲み会に参加した日はなかなか寝つけないことが多かった。電気を消して横になってから、頭の中で飲み会の反省会が始まってしまう。「あの時どうしてあんなことを口にしたんだろうな」「あの質問をされた時、こうやって答えることができたらよかったのにな」「ああいう言い方したら、誤解されてしまったかもな」「あのひと言で傷つけちゃったかな」とか。

30代になるとそういったことがめっきり減った。まったくない、というわけではないけれど、飲み会が終わって反省する機会はほとんどない。どうして減ったのか、僕なりに考えてみると、まず「反省する可能性が高くなる飲み会」というものの傾向がわかってきた、という理由が挙げられる。反省するのは自分が無理をしたり背伸びしたり、緊張で思ったように会話できなかったり、そういう場面が多く、だいたい「知らない人」や「あまり仲よくない人」のいる飲み会で発生しやすい。そもそもそういう飲み会へ行かなければ、自分が妙な発言や行動をする機会も減る。もうひとつは、「僕自身が成熟した」というのもあるだろう。果たしてそれが人間として正しいことなのかはわからないけれど、無理して場を盛り上げようとか、気を遣って普段と違うことをしようとか、そういうことをしなくなった。

実は小説にも同じことがいえる。最近、短編集の修正作業を行ったのが、20代の頃に書いた短編はとても未熟で、表現の仕方や情報の出し方も下手で、「こんなものを世に出していたのか」と恥ずかしくなった。アイデアや比喩などで「いまではこんなこと思いつかないなあ」と感心することもあったりするので、「作品の質が低い」とは言いきれないけれど、端的に技術として足りてない部分が散見された。飲み会と一緒で、当時の僕は小説そのものに不慣れで、妙に肩肘が張っているところがあったと思う。

「黒歴史」と呼ばれる、思い出すだけで恥ずかしくなるような過去も、30代からはそれほど増えていない。10代と20代のまだ僕という人間が未完成だった時期、いろいろ試行錯誤していた過去こそが、恥ずかしい記憶として残ってしまっているのだろう。

反省することが少ない、小説上の間違いが少ない、「黒歴史」が生まれない――これは僕が成熟した証しなのだろうか。僕は「自分という人間の成長が止まりつつある証し」だと思っている。だからこそ、ポジティブな現象だとは思えない。

自分の過去の振る舞いを――飲み会での恥ずかしい発言や、学生時代の「黒歴史」を――なんの前触れもなく思い出して、その場から動けなくなったことは一度や二度ではない。そういった時、僕はいつも「過去の行いを恥ずかしいと思えるのは、自分が成長したからだ」と考えるようしていた。後悔できるのは、成長しているからだ。当時の自分の価値観や考え方が間違っていたと思えるのは、いまの自分の価値観や考え方が変わったからだ。「黒歴史」は、人間として成長する時の成長痛のようなもの。学生時代の「黒歴史」のない人間は、学生時代から人格的になにも成長していない人間だ。

「黒歴史」を恥じる必要はない。自分の過去の間違った振る舞いを、なかったことにする必要もない。後悔や反省ができるのは、人として成長しているからだ。むしろ、後悔や反省をしなくなってしまったら、そのことを恥じたほうがいいと思う。
 
10年後にこのエッセイを読み返した僕が、「うわあ、ここの表現はひどいなあ」とか「ここはこう書いたほうがよかったなあ」とか、後悔や反省をしてくれていることを願っている。

小川 哲

1986年、千葉県生まれ。2015年に『ユートロニカのこちら側』(早川書房)でデビューした。『ゲームの王国』(早川書房)が18年に第38回日本SF大賞と第31回山本周五郎賞受賞。23年1月に『地図と拳』(集英社)で第168回直木賞受賞。近著に『君のクイズ』(朝日新聞出版)がある。

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※この記事はPen 2024年9月号より再編集した記事です。