経済価値と社会価値を追求するシャネルのクリエイション拠点、日本ブランドでも可能性はあるのか?

  • 文:細谷正人
  • 現地取材コーディネイター:Naoko Unbekandt
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フランスの伝統的な工芸技術を集め、保存・継承し、様々な社会課題の解決を目指すソーシャルグッドな拠点 「le19M(ル・ディズヌフ・エム)」。le19Mの25,500㎡の建物内には、現在12のメゾンが集まり、約700人の職人が働いている。技術に関するアーカイブ、展示スペース、カフェなどがあり、不定期で展示や工房主催のワークショップやカンファレンスが行われる。 

LVMHやエルメスなど、卓越した技術や文化を発信する複合施設が急増

日本のものづくり力は、現在でも世界から注目を集めています。しかしながら、LVMHやリシュモン、ケリングといった数多くのラグジュアリーブランドを所有するコングロマリット企業に対して、日本ブランドはこの市場の中で強力なブランドを生み出すことに苦戦しているのが現状です。さらに、欧州のラグジュアリーブランドは商品やコレクションが注目される機会が多い一方で、先を見越して他分野の人財や文化、社会活動を支援する取り組みを行う企業も増えてきています。

2022年1月にオープンした、シャネルによる新しい拠点「le19M(ル・ディズヌフ・エム)」は、フランスの伝統的な工芸技術を集め、保存、継承し、さまざまな社会課題の解決を目的としたソーシャルグッドな拠点です。従来、分散していたシャネルの資産である工房や職人をひとつの拠点に集め、技術の進化と継承を行い、地域社会も含めた新しいコミュニティを形成することで、未来へ向けて価値のあるモノづくりを生み出そうとしているクリエイションのための施設です。

ここには、他のラグジュアリーブランドの文化施設で見られるような、シャネルのロゴやスーベニアショップは一切ありません。そして最もユニークなのは、華やかなパリ市内の中心部ではなく、ヨーロッパ最大の繊維業が集中したモンマルトル北側のパリ19区とオーベルビリエール市にまたがった低所得層が多い労働者階級向けの団地群が立ち並んでいる場所に誕生させたことです。その他にも人権問題や格差問題、気候変動等の社会問題と向き合い、財務・非財務と分けて考えられていた経済価値と社会価値を同時に追求するシャネルの新しいクリエイション拠点となっています。

先駆け的な存在であるカルティエ現代美術財団は1984年にパリ14区にオープンし、世界中のアーティストを後援する場として設立されました。ジャン・ヌーベルが設計した建物と、それを取り囲む緑豊かな庭園は、こじんまりとした空間ながらも、パリにいることを忘れさせるようなアートを楽しむのにぴったりの場所です。さらにアートを中心としたものでいえば、2007年にはブローニュの森の一角にフランク・ゲーリー設計のルイヴィトン財団も設立されました。これにより、モード、アート、建築が切り離せないほど強く結びついていることが感じられるようになりました。そして、より広いスペースを確保するために、パリ郊外に拠点を構えるブランドも次第に増えていきました。モードやアートだけでなく、オフィス、ギャラリーやホールを併設し、伝統工芸を支援する事業も多く見られるようになっていきます。

エルメスは1992年に、パリ北東部のラ・ヴィレット公園近くのパンタン市にオフィス、工房、ショールームをまとめた建物群をつくりました。その後、2010年には革の端材を使い、アーティストとエルメスの職人技術から生まれるシリーズ「Petit h」が誕生しました。同年には、エルメス財団も設立され、レジデンスアーティストが使用済みの素材を元に作品を制作するようになりました。さらに、この場所で増築と改修を重ねた結果、展示スペース、ダンスやパフォーマンス用のホール、ワークショップのための空間などからなる複合施設「Cité des Métiers」が誕生しました。

LVMHも2015年に「LVMH Métiers d’art」を設立し、世界中の伝統技術を支援する活動をスタートさせました。2023年4月には岡山のデニムメーカー・クロキと、同年11月には京都の西陣織メーカー・細尾とパートナー提携を結び、日本におけるデニムと絹産業のバックアップを始めました。

このように、世界のラグジュアリーブランドは、製品の背後にある背景やシーン、職人技術などの価値にフォーカスするための拠点を重視しています。職人やストーリーを重視していく流れの中で、最近話題になっているのが、経済価値創造と社会課題解決を同時に追求した、シャネルの新しいクリエイションの拠点「le19M(ル・ディズヌフ・エム)」なのです。

経済価値と社会価値を同時に追求した、シャネルの新しいクリエイション拠点

「le19M」は、フランスが誇るファッションとデコレーションの職人技術を保存、継承する目的で設立されました。この施設は、1985年にシャネルが小さなメゾン(工房)を守るために買収したことから始まり、現在、シャネル傘下にあるメゾンは約40社にのぼります。

25,500平方メートルに及ぶ「le19M」の建物内には、12のメゾンが集まり、約700人の職人が働いています。工房技術のアーカイブ、展示スペースのギャラリー、カフェなどがあり、不定期で展示や工房主催のワークショップやカンファレンスといった文化的なプログラムが行われています。

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Front Populaire駅近くには「le19M」の大きな案内板がある。北東部にあるパリ19区、隣接するオーベルビリエはイメージも治安も決してよいエリアではない。(取材当時は)パリ五輪を控え、大規模な再開発が進んでいる。
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左:イタリア人建築家Rudy Ricciottiによる建築はこの界隈の新しいランドマークに。 右:中へ入ると自然光による外観のデザインのシルエットの美しさが空間を演出する。

「le19M」に活動拠点を置く12のメゾンは、刺繍のATELIER MONTEXとその建築刺繍部門のSTUDIO MTX、装飾小物のDESRUES、コルセット技術を活かしたランジェリーと水着のERES、金銀細工とジュエリー加工のGOOSSENS、羽根加工のLEMARIE、刺繍とツイードのLESAGEと、そのインテリア部門のLESAGE INTERIEURS、プリーツ加工のLes Ateliers LOGNON、帽子のMAISON MICHEL、靴のMASSARO、縫製のPalomaからなり、どのメゾンの技術もフランスの中でトップクラスです。

施設名の「le19M」にはシャネルのさまざまな想いが込められています。「19」はシャネルにとって特別な番号で、ガブリエル・シャネルの誕生日である8月19日、さらには所在地であるパリ19区からきています。Mは「Mode(ファッション)」「Mains(手)」「Métiers d’art(伝統工芸)」「Maisons(メゾン)」「Manufactures(手工業)」の頭文字から名付けられました。

le19m.005.jpeg左:小さなスタンドでは建築やモード、デザイン関係の書籍などが数点販売されているが、シャネルブランドのアイテムは一切無い。 右:各メゾンのテクニックが施されたサンプルが手に取ることができるディスプレイがある。

「le19M」の空間も非常に心地よいものとなっています。ガラスを最大限に利用した壁面は自然光をふんだんに取り入れ、白いパイプが繊維のように建物の外側を覆っています。建物内に入ると、その繊維のレイヤー越しに入る自然光がとても美しく、気持ちがいいのです。右側にはカフェがあり、定期的にシェフが招待されることでメニューが変わり、訪れる度に新しい楽しみを提供しています。これは最近、パリのレストランやカフェでよく見られるスタイルです。

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左:開放的な空間でランチ、カフェを取ることができ、ビジターのみならず、働く人の利用者も多い。 右:刺繍が施された壁面のタペストリー、有機的なフォルムの照明など、手仕事の素晴らしさが随所に見られる。
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左:施設内にある「le19M」のキービジュアル。職人の繊細な手捌きにフォーカスしている。 右:インテリアを担当したのはStudio GGSV。過去のコレクションの生地など素材をアップサイクルして家具はつくられた。

le19Mに活動拠点を置く、刺繍や金銀細工などの12社のメゾン

私たちが「le19M」に訪れた時には、夏のパリオリンピックのフランス代表チームのウェアのアートディレクターを務めるデザイナーの展示「Figure Libre. Stéphane Ashpool」が開催されていました。展示の見学と共に、今回は2つのワークショップに参加しました。

1つ目は、刺繍のブローチをつくるワークショップです。展示に合わせてスポーツをモチーフにした図案が用意され、2時間で仕上げるものです。講師は「le19M」で働くフリーランスの刺繍職人の女性で、基本的なテクニックを教えてくれました。目の前に並べられた色とりどりの美しいビーズから気に入ったものを選び、一つひとつ刺していきます。作業は想像していたものよりも難しく、時間があっという間に過ぎていきましたが、焦りながらも何とか時間内に完成させることができました。ワークショップには2人で参加している女性が多く、和やかでアットホームな雰囲気でした。

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左:刺繍のブローチを作るワークショップの参加者は10名ほど。 右:モチーフの上から好きなビーズを選び刺していく。
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左:展示に併せて、ボールやコートなどスポーツのモチーフ。ビーズ刺繍で印象が変わるのが面白い。 右:用意されたビーズ。宝石箱のよう。
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左:テーブルの上には進行中の作品があり、さまざまな人の手でひとつの作品が仕上がり、最終的に会場に展示されるというワークショップ。 右:講師の男性が羽根の切り方、貼り方などを丁寧に説明してくれる。
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左:グラデーションになるように配置された羽根をつなげていく作業は、一心になれる。 右:美しく見せるための羽根の切り方、整え方、貼り方はプロならではのテクニック。

2つ目は、入口左側のオープンスペースで開催された、展覧会に合わせた無料の共同ワークショップです。羽根を使って一枚のアート作品をつくるもので、施設内のメゾン、LEMARIEとのコラボレーションです。羽根一つひとつの繊細さと華やかさに目を奪われながら、羽根の扱い方を学び、形を整えて貼っていく作業は、シンプルながらも心休まるものでした。自分が制作に関わった作品が完成し、会場に展示されるという満足感が得られました。

どちらのワークショップも、シャネルに関わる職人から技術を学び、実際に使用している道具や素材に直接触れることができる唯一無二の体験でした。これらのワークショップは大人向け、子ども向け、学校向けと対象者が設定されており、施設内のメゾンとのコラボレーションプログラムで、他では決して体験できない貴重なものばかりです。

建物の奥にはギャラリーもあります。この時もStéphane Ashpoolのコスチュームデザインの展示が行われており、LEMARIEの羽根細工、Les Ateliers LOGNONのプリーツ加工、MAISON MICHELの帽子など、各メゾンの卓越した技術が活かされたデザインを見ることができます。羽根加工の素材と技術に触れるワークショップに参加したことで、展示の見方が一変し、素材の使い方や縫製技術の素晴らしさを実感することができました。

さらに、今年の春にオープンした「la Parcelle」は、この施設を取り囲む庭園を中心とした屋外空間で、パリ18区、19区、オーベルビリエール市の団体と提携して文化的なプログラムを開催しています。La Parcelleは住民の階級が異なる19区とオーベルビリエール市をつなぐ役割を果たし、建築と共に革新性と持続可能性をテーマにしています。エネルギー効率と生態系の優先が目的です。

「全ての人に開かれたインタラクティブで文化的な空間で、Grand Paris北部の地域に根付いたコミュニティの統合と活性化」がミッションとなっています。ここでも大人向け、子ども向け、家族向けのプログラムがあり、自然、環境、リサイクル、伝統工芸をテーマにした、単なる庭園にとどまらない興味深いプログラムが提案されています。

le19m.012.jpeg左:施設内ではメゾンの伝統工芸の技術が随所に見られる。衣装デザインは、デザインとテクニックの関係性とそのプロセスが理解でき興味深い。 右:羽根を使ったデザインは職人が得意とするもの。下地とオーガンジーの間に羽根を挟ませたものは、バージョンを変えて随所で使われていた。
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左:シャツの細部のボード。プリーツ加工とボタン。フランス発祥のスポーツ・フェンシングの動きもデザインのヒントにしている。 右:プリーツ加工が見事なシャツとネクタイ。

日本版「le19M」は生まれるのか?

シャネルはラグジュアリーブランドの中でも比較的小規模です。そんなブランドがなぜこのような施設をつくり、オープンから2年で知名度を上げているのでしょうか。それは、国やパリ市、パリ19区などの自治体、非営利団体、近隣の文化施設など多岐にわたる関連団体との密接な連携を目指したからです。パリオリンピック前に郊外の工業地域や治安の悪い地域を開発してイメージを一新し、活性化したいという行政や自治体の希望をうまく取り入れ、シャネル自らが進めたい方向へ導いている手法は見事です。職人技術の継承、持続可能な環境づくり、生態系の確保、人権問題や格差問題は、国や自治体が最も取り組みたいテーマです。そこにシャネルというブランドがプロジェクトのイニシアティブを取れば、話題性も生み出すことができます。地域密着型のアーティストや団体と提携したプログラムづくりも成功の一因と言えるでしょう。

同様に日本でも、働き手の確保、技術の継承、持続可能な環境づくり、生態系の確保などは国や自治体が最も取り組みたいテーマです。特に過疎化が進み、人口減少が大きな課題になっている地方自治体では、地域経済の活性化と雇用の確保にもつながる取り組みにより、人口減少傾向を食い止めることが可能です。さらに、日本でも職人が若手への技術継承の難しさから廃業に追い込まれるケースがあります。その結果、メーカーは従来のようなサプライチェーンを維持できず、品質が低下したり、生産コストが上がったりしているのが現状です。もしかすると日本版の「le19M」は、そのような課題の解決方法になり得るかもしれません。

もちろん今治や鯖江など特定の産業が集中している自治体では、「le19M」に似たような取り組みが盛んに行われています。しかし、最終的に集客や利益に直結させる販売チャネルが脆弱です。どんなによい取り組みだったとしても直面してしまう非常に重要な課題です。この問題を解決するためには、ブランド企業が持つ潤沢な技術力や経験則、販売チャネルが大きな強みとなります。

ブランド企業と行政が具体的にタッグを組み、自然消滅の可能性がありそうな職人技術を一時的に寄せ集め、互いに将来の人財確保や技術継承の課題を補い、産業の衰退や品質低下を食い止める戦略は有効です。特に日本のものづくりは、風土や歴史も重要ですから期間限定で技術の保護のために集結するなど「le19M」とは異なる仕組みづくりも必要です。企業側から見れば、その投資に見合ったブランド価値を向上させる継続的な運営方法も重要です。単に国や地方自治体が助成金を分配するだけでなく、「le19M」のように行政や地域がブランド企業に対して全面的かつ継続的にバックアップすることができれば、日本でも実現可能かもしれません。

例えば、セイコー、ミキモト、ユニクロ、アシックス、MUJI、サントリー、ヤマハ、ワコールなどの世界でも屈指の日本ブランドが多数あります。これらの企業ブランドが行政とイニシアティブをしっかり握り、技術継承が困難な職人や工房を集め、若手人財を確保することで、経済や教育、人口減少などさまざまな社会課題を解決できるコミュニティを作ることができればひとつの道筋が見えてきます。また重症化している社会課題を解決できれば、ブランド価値は唯一無二の存在となります。経済価値と社会価値を同時に追求し、日本ブランドを次のステージへ進めるためにも、日本版「le19M」は求められている戦略手法になり得るのではないでしょうか。

細谷正人

ブランディング・ディレクター

NTT、米国系ブランドコンサルティング会社を経て、2008年にバニスター株式会社を設立。同社代表取締役。P&Gや大塚製薬、サイバーエージェント、ワコールなど国内外50社を超える企業や商品のブランド戦略とデザイン、人財育成まで包括的なブランド構築を行う。主な著書に『ブランドストーリーは原風景からつくる』、『Brand STORY Design ブランドストーリーの創り方』(いずれも日経BP)。法政大学大学院デザイン工学研究科兼任講師。

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細谷正人

ブランディング・ディレクター

NTT、米国系ブランドコンサルティング会社を経て、2008年にバニスター株式会社を設立。同社代表取締役。P&Gや大塚製薬、サイバーエージェント、ワコールなど国内外50社を超える企業や商品のブランド戦略とデザイン、人財育成まで包括的なブランド構築を行う。主な著書に『ブランドストーリーは原風景からつくる』、『Brand STORY Design ブランドストーリーの創り方』(いずれも日経BP)。法政大学大学院デザイン工学研究科兼任講師。

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