〈長野県下高井郡〉
大湯
呼吸を整え「ぬる湯」と書かれた浴槽に身を沈める。その刹那、不覚にも笑ってしまった。
13の共同浴場(外湯)を持つ野沢温泉村は、村名の中に「温泉」の二文字が含まれる日本唯一の村である。シンボルの「大湯」が、江戸の面影を再現すべく建て替えられたのは30年前。脱衣所と浴槽が一体となった素朴な空間に、50℃のあつ湯と46℃のぬる湯、ふたつの浴槽が並んでいる。まずはぬる湯に浸かったのだが……その熱いこと!体感では48℃を超えていたと思う。朝から誰も入っていなかったので、温度が上がっていたらしい。ぬる湯本来の46℃くらいまで水を足し、改めて浸かる。それでも熱いが、刺すような痛みはなく、次第に心地よくなっていくから不思議だ。これほど上質な湯が身近にある村人たちが羨ましい。というのも、すべての共同浴場は入浴料無料。観光客も無料だが、入り口の賽銭箱に幾ばくかの寄進をすることが湯を嗜む者としての礼儀である。
実はこの村の外湯は、江戸時代から「湯仲間」という制度によって守られてきた。湯の周辺に暮らす有志によって結成されていて、清掃は当番制で担当。それだけでなく電気や水道の料金まで負担し、外湯の管理、維持、運営を行う“選ばれし者”による組織である。湯仲間に加わるには簡単ではないが、そこで生まれる絆と交流は人生を豊かにする種となる。
くしくも野沢温泉村のキャッチコピーは「笑顔も自然湧出」。自然とこぼれる笑みが、この村の豊かさを表していた。
※この記事はPen 2024年8月号より再編集した記事です。