人の話を理解する時に有効な、3段階のプロセスとは?【はみだす大人の処世術#18】

  • 文:小川 哲
  • イラスト:柳 智之
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Pen本誌では毎号、作家・小川哲がエッセイ『はみだす大人の処世術』を寄稿。ここでは同連載で過去に掲載したものを公開したい。

“人の世は住みにくい”のはいつの時代も変わらない。日常の煩わしい場面で小川が実践している、一風変わった処世術を披露する。第18回のキーワードは「話題の置き換え」。

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「コミュニケーションが苦手」と自己分析する人の多くは、実はコミュニケーションが苦手ではない気がしている。たとえば、「知らない人となにを喋っていいのかわからない」「盛り上がるような話をすることができない」などは、コミュニケーションが苦手であることと同値ではない。なにを喋っていいのかわからなければ黙っていればいいし、無理に会話を盛り上げる必要もない。

大学時代、「バキューム先輩」と陰で呼ばれている先輩がいた。後輩の飲み会に呼ばれてもいないのにやってきて、飲み会の場で発生したあらゆる話題をすべて自分の話に引き込んでしまうことから「バキューム先輩」と呼ばれていた。たとえば誰かが「居酒屋でバイトを始めた」という話をすると、「バイトといえば」のようなかたちでカットインしてきて、「俺は昔、病院の電話番のバイトをやっていて、夜勤だったから給料もよかったし、電話がかかってこない時は好きなことができたから、DSでドラクエを全クリしたんだよ」みたいな話を始める。誰かが漫画『デスノート』の話をすると、『デスノート』から無理矢理、『週刊少年ジャンプ』の話に普遍化し、そこから井上雄彦のサイン色紙を持っている、という話につなげてしまう。この「誰かの個別の話」→「普遍化」→「先輩の個別の話」という3段階の話法を防ぐ術はなく、2時間の飲み会でその先輩が1時間50分喋っていた、ということが何度も起こった。飲み会の場で、人の話を黙って聞きながら相槌を打っている人のことを「無口だな」と思うことはあっても、「コミュニケーションが苦手だな」とは思わない。むしろ、空気を読まずに自慢話や昔話を延々と続ける人のほうがよほど邪魔くさい。しかも厄介なことに、こういう人は自分のことを「コミュニケーションが得意だ」と思っていたりするから救いようがない。

僕はバキューム先輩が参加する飲み会はすべて欠席するほど苦手だったのだが、まったく別の文脈でたまにバキューム先輩を思い出すことがある。たとえば将棋の強さの指標のひとつに「形勢判断能力」というものがある。将棋のある局面において、先手が有利なのか、後手が有利なのか、どの部分に弱点があるのか、次にどの駒を動かすべきなのか、そういう判断を行う能力のことだ。僕は将棋の素人なのだが、この話はよくわかる。なぜなら、小説でも似たようなことがいえるからだ。自分の書いた原稿の「どこに問題があるか」「どこがよくて、どこが悪いか」「この後どう進めるべきか」という点などを正しく判断する能力は、小説家として重要な要素でもある。

将棋だけでない。サッカーやテレビゲームや警察組織やペンキ産業など、小説とったく関係のない他業種の話を聞いている時に、「これ、小説と同じだ」感じることが非常に多い。僕が「他人より詳しい」と胸を張ることができるのは、基本的に小説に関することだけなのだが、小説について真剣に考えてきたことを通じて、ほとんど知らない業種の構造について理解できてしまう(ように感じる)ことがあるのだ。

逆に、なにかの専門家の人に対して僕が小説の話をした時、「ああ、同じですね」と言われることもある。所詮はなにもかも人間の営為なので、どの業種や業界も同じような構造に行き着く、ということだろう。

そこでふとバキューム先輩の話を思い出す。僕は「誰かの個別の話」→「普遍化」→「自分の個別の話」という変換を経て、将棋の話を小説の話に置き換える。他人の話を自分のフィルターを通して理解する時、この3段階は必要不可欠なのかもしれない。ありがとう、バキューム先輩。

小川 哲

1986年、千葉県生まれ。『ユートロニカのこちら側』(早川書房)でデビュー。『ゲームの王国』(早川書房)が18年に第38回日本SF大賞と第31回山本周五郎賞受賞。2023年に『地図と拳』(集英社)で第168回直木賞受賞。近著に『君が手にするはずだった黄金について』(新潮社)がある。

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※この記事はPen 2024年6月号より再編集した記事です。