過ちを犯すことで、他人に寛大になる?【はみだす大人の処世術#17】

  • 文:小川 哲
  • イラスト:柳 智之
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Pen本誌では毎号、作家・小川哲がエッセイ『はみだす大人の処世術』を寄稿。ここでは同連載で過去に掲載したものを公開したい。

“人の世は住みにくい”のはいつの時代も変わらない。日常の煩わしい場面で小川が実践している、一風変わった処世術を披露する。第17回のキーワードは「聖人君子を辞めた時」。

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ペットボトルのゴミを出す時は、キャップとラベルを取らなければならない(少なくとも僕の自治体ではそうだ)。僕もその決まりを守っているし、いつも使っている回収ネットを見る限り、多くの人が守っている。ところが、先日ペットボトルのゴミを出しに行くと、回収ネットにラベルとキャップが付いたままのゴミが大量に捨てられていたことに気づいた。急いでいたこともあって、僕は自分のペットボトルをそのまま捨て、既に捨てられていたものを無視することにした。駅に向かって歩く間、回収ネットに入っていたキャップとラベル付きのペットボトルについて、ずっと考えていた。

自分のゴミだけでなく、前の人のゴミを取り出してキャップとラベルを処理するべきだったと後悔したから――というわけではない。そんな選択肢は思い浮かびもしなかった。「急いでいたこともあって」と前置きをしたが、もし仮にたっぷり時間があったとしても、他の人の間違ったゴミの出し方を直しはしなかったと思う。僕が考えていたのは、自分の倫理の線が「自分のゴミは規則通りに出すが、他人がどんな出し方をしていても気にしない」という部分に引かれていたこと。もし僕が聖人君子であれば、なにも考えずに他の人のキャップとラベルも処理していたはずだ。

もちろん僕だって本当なら聖人君子になりたいが、心のどこかで諦めしまっている。いつから、聖人君子になることを諦めてしまったのだろうか。

僕はその瞬間のことをよく覚えている。中学2年生の時だ。翌日に部活の練習試合で少し離れた中学校へ行くことが決まっており、その交通費である千円を母に請求した。母は財布からお札を取り出して机の上に置いた。机の上を見ると、五千円札が置いてあった。そのまま机の前でしばらく悩んでから、僕は「お札を間違えてるよ」と母に言った。母は「本当だ」と五千円札を財布に戻し、改めて千円札を出した。

この話を聞けば、僕が聖人君子に思えるかもしれない。でも、その心の動きは聖人君子には程遠いものだった。まず僕は「ラッキー」と感じ、母に見つからないうちに五千円札を持って行ってしまおうと考えた。しかし、すぐに「もしかしたら母が僕を試しているのかもしれない」と考えた。母は間違えたふりをして五千円札を置いて、息子が正直に申告するかどうかを見ているのだ。僕は「母が本当に間違えている確率」と「母が僕を試している確率」を瞬時に概算し、自分なりに期待値を計算した結果、「お札を間違えてるよ」と申告することにした。結果を大きく分けたのは、もし母が本当に間違えていた場合でも、正直に申告すれば「この子は正直者だ」と思ってもらえるだろう、という算段があったからだた。

自室に戻ってから、僕は自分の選択を後悔した。母の反応からして、僕を試していた様子ではなかったからだ。中学生にとって、差額の4000円は世界を変える金額だった。4000円で買うことのできた菓子や漫画について考えた。ひとしきり考えてから、こういうことを考える時点で、僕は聖人君子にはなれないと悟った。きっと聖人君子はこんなことで後悔しないだろう。

とはいえ、聖人君子でないからこそ、規則を破ってしまう人の気持ちもわかるのだ。他人に対して多少なりとも寛大になれる。もしあなたが聖人君子でないのなら、あるいは自分が犯した過去の非道徳的な振る舞いに身に覚えがあるなら、他人の過ちに対して寛大になることで、自己を正当化することができるはずだ。そういう生き方もあっていいと思う。

小川 哲

1986年、千葉県生まれ。『ユートロニカのこちら側』(早川書房)でデビュー。『ゲームの王国』(早川書房)が18年に第38回日本SF大賞と第31回山本周五郎賞受賞。2023年に『地図と拳』(集英社)で第168回直木賞受賞。近著に『君が手にするはずだった黄金について』(新潮社)がある。

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※この記事はPen 2024年5月号より再編集した記事です。