ここ10年の目覚ましい活躍によって、日本映画の最前線に立った映画監督の濱口竜介。ワークショップ参加者を演者に起用し、生々しいリアルを焼き付けた『ハッピーアワー』(2015年)では、演技経験のなかった主演女優たちにロカルノ国際映画祭の最優秀女優賞をもたらした。その後、『偶然と想像』(21年)ではベルリン国際映画祭銀熊賞、『ドライブ・マイ・カー』(21年)ではカンヌ国際映画祭の脚本賞を受賞し、国内興行収入13億円超えの大ヒットを記録。さらに第94回アカデミー賞の国際長編映画賞を受賞し、作品賞、監督賞、脚色賞にもノミネートされ、日本映画史を見事に塗り替えてみせた。
「これまでの自分の映画づくりは役者さんを中心として、どうしたら彼らをより生々しく捉えられるかを、なにより考えながらつくってきました。ただ、『偶然と想像』と『ドライブ・マイ・カー』では、そのスタンスを一旦突き詰めた感もあったので、少しその原則を緩めたところに向かいたいという気持ちがあったんです」
そんなところに舞い込んだのが、『ドライブ・マイ・カー』で組んだ音楽家、石橋英子からのライブパフォーマンス用映像のオファーだった。このプロジェクトは、映画『悪は存在しない』(23年)と石橋のライブパフォーマンス映像『GIFT』という2本の作品として結実する。試行錯誤を経て、石橋の音楽と拮抗するためには、いつものように物語のある脚本を書き、しっかりと演出した映像が必要だと確信した濱口は、石橋が音楽スタジオを置く山梨へ赴き、野山を歩き、そこに生きる人々から土地の自然や生活にまつわる話に耳を傾け続けたという。
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自然の中で感じた、“悪は存在しない”こと
「石橋さんの音楽が生まれている場所であれば、彼女の音楽と調和のとれたものが撮れるんじゃないかと思い、山梨に向かって。石橋さんのお友達から木や湧き水、自然や生活にまつわることを教えていただき、脚本にしていきました。映像化という点では今回、自然であれ、人であれ、言語化できない抽象化された瞬間をできるだけ切り取ってくることを意識しました。制作中、ショットの有り様という点で、ビクトル・エリセ監督の存在も頭の中にあったと思います」
映画のオープニングは、木々の間から空を仰ぐ移動ショットに石橋のメインテーマが響き渡り、音楽がやむ瞬間、青いダウンジャケットにニット帽の少女の映像に切り替わる―― 少女・花(西川玲)は、父の巧(大美賀均)とともに、山梨と長野の県境に位置する自然豊かな土地で慎ましい生活を送っている。彼らをはじめとする地元民と移住者が混在するこの村に、コロナ禍が明け、政府の助成金を得てグランピング場の造設を進めるべく、都会の人間がやってきて……。
「自然の中を歩き回るうち、単に美しいという以上に、自然は人間と無関係に存在しているという気持ちになって。だから破壊的な災害が起きても自然に悪意があるとは考えないですよね。そうしてシンプルに思い浮かんだ『悪は存在しない』というフレーズがそのままプロジェクトのタイトルになり、結果的に完成した脚本とのコントラストを自分自身も最後まで楽しみました。観客もきっと、内容とタイトルの緊張感を楽しんでくれるんじゃないかなと、そのまま残したんです」
意味深なタイトルと石橋が奏でる音楽が、静謐な物語に不穏な空気を吹き込み続ける『悪は存在しない』。息を呑むラストとともにスリリングな映像体験を約束し、見終わった瞬間から見る者への問いかけが始まる映画だ。
新たな試みに挑んだ『悪は存在しない』でもベネツィア国際映画祭で銀獅子賞に輝いた濱口は、次はどこへ向かうのか。最近刺激を受けた作品を尋ねると、「三宅唱監督の新作『夜明けのすべて』を見て、心から素晴らしいと思いました。年下ですが尊敬する監督です」という言葉が返ってきた。
「映画づくりを“もっとうまくなりたい”という気持ちが強いです。演出においても、もっとできることがあると常に思いますし。その技術を使って、自分自身のその時々の関心に沿うようなテーマから、 なにかを生み出していきたいと思っています」
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WORKS
映画『悪は存在しない』
豊かな自然に恵まれた高原の町は移住者を受け入れ、緩やかに発展してきた。ところがある日、森の環境や水源を汚しかねない、杜撰なグランピング場の造設計画が持ち上がる。4月26日よりBunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、K2ほかにて公開。
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映画『ドライブ・マイ・カー』
妻に先立たれた演出家(西島秀俊)が広島での演劇祭に愛車で向かう。そこで出会った寡黙なドライバー(三浦透子)の運転に身を任せるうち、男の心境に変化が訪れ……。発売・販売元:カルチュア・パブリッシャーズ/TCエンタテインメント。
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『GIFT』
『悪は存在しない』と同じ撮影素材から石橋英子のライブ・パフォーマンス用に編集された映像。2023年10月にベルギーのゲント国際映画祭で、石橋による生演奏とともに初めて披露された。
※この記事はPen 2024年5月号より再編集した記事です。