AIが発達する中で、人間にしかできないこととは?【はみだす大人の処世術#16】

  • 文:小川 哲
  • イラスト:柳 智之
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Pen本誌では毎号、作家・小川哲がエッセイ『はみだす大人の処世術』を寄稿。ここでは同連載で過去に掲載したものを公開したい。

“人の世は住みにくい”のはいつの時代も変わらない。日常の煩わしい場面で小川が実践している、一風変わった処世術を披露する。第16回のキーワードは「AIにできないこと」。

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取材などで、記者から生成AIについて聞かれることが増えた。生成AIとはさまざまなコンテンツを生成することのできるAIのことで、文章を生成するチャットGPTや、画像を生成するステイブル・ディフュージョン、音楽を生成するアンパーミュージックなど、多岐にわたるジャンルの創作物がAIによって生成されている。

僕は生成AIについて、楽観的に考えている――生成AIは限定的にしか小説家の仕事を奪うことはなく、むしろ業務を手伝ってくれる存在になるのではないか。原稿用紙に手書きをしていた時代から、PCによって執筆が可能になった。それと同じように、メールの返信やスケジュール管理、資料集めや簡単なプロット作成など、生成AIが仕事を支援してくれるのではないかと期待している。現時点では生成AIがつくる小説の質があまりよくない、という点ももちろん無関係ではない。

とはいえ、生成AIが生み出す作品の質は、今後もよくなっていくだろうし、特定のジャンルの小説であれば、人間の作家を凌駕する可能性も出てくるだろう。それでも僕が「小説家の仕事が奪われる」とそこまで心配していないのは、そもそも「小説とはなにか」という点で人間のほうが有利だと考えているからだ。

たとえば僕たちが米を買う時と、絵を買う時になにが違うのかを考えてみたい。多くの場合、僕たちが米を買うのは米を食べたいからだ。僕たちは米という物質に対して代金を支払っている。一方で、絵を買う時に、僕たちはなにに対して代金を支払うのだろうか。絵を構成する物質――つまり額縁や絵の具に対して代金を支払っている、というわけではないように感じる。

ゴッホの絵を見て僕たちが感動するのは、もちろん彼の絵が魅力的だからなのだが、それだけが理由ではないはずだ。絵の背後に、僕たちはゴッホという作家自身のストーリーを重ね合わせている。神経質な彼の性格のことや、自らの耳を切り落としてしまった話などが、彼の大胆で繊細な色づかいにつながっているのかもしれない、などと考えながら作品を楽しんでいる。つまり、僕たちは絵の内容と同時に、その外側の物語も体験しているのだ。

これは絵に限った話ではなく、音楽や映画、小説についても同じだと思う。僕たち人間は、個々の作品の内容だけを綺麗に取り出して、単体で楽しむことができるほど純粋な鑑賞者にはなりきれない。作品と同時に、その作品を残した人物のことや、その作品が生まれた時代の背景のこと――もっというと、その作品と出合った時の自分自身のことや、その作品について友人と語り合ったことなども含め、総合的な体験として作品を楽しんでいる。

生成AIは作品を生成することならできるが、作品の外側の物語を生成することはできない。人間は日々頭を抱え、何度も失敗を重ねながら、AIからすれば非常に長い時間をかけてひとつの作品を生み出している。僕たちはその苦悩の過程や失敗の痕跡を含め、有限の寿命をもった人間が作品を残したことに感動し、その体験に対して代金を支払っているのではないか。

隙のない能力をもった生成AIの登場は、相対的に僕たち人間の弱さや愚かさの価値を上げてくれるかもしれない。手痛い失敗をしたり、大きなミスをしてしまったりした時は、「AIにはできない経験をした」と前向きに考えてみるのもいいだろう。僕たちが間違えるのは、僕たちが人間だからで、人間としての価値をAIが代替することはできないのだから。

小川 哲

1986年、千葉県生まれ。『ユートロニカのこちら側』(早川書房)でデビュー。『ゲームの王国』(早川書房)が18年に第38回日本SF大賞と第31回山本周五郎賞受賞。2023年に『地図と拳』(集英社)で第168回直木賞受賞。近著に『君が手にするはずだった黄金について』(新潮社)がある。

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※この記事はPen 2024年4月号より再編集した記事です。