万年筆嫌い? 文豪・夏目漱石が初めて気に入った万年筆とは

  • 文:小暮昌弘(LOST & FOUND)
  • 写真:宇田川 淳
  • スタイリング:井藤成一
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モデル名は「MARUZEN “Stream Line Brilliant Wave #MSL-BW」。ペン先は14K。ペン先字幅はF細字、M中字、B太字の3種。ボディの材質はAS樹脂。インクはコンバーター、カートリッジ両用式。日本製。¥41,800 「萬年筆物語」という名前の原稿用紙。『吾輩は猫である』などの漱石作品の装丁を担当した橋口五葉がデザインした原稿用紙。本文30枚。¥638/ともに丸善ジュンク堂書店 

「大人の名品図鑑」紙幣の偉人編 #5

今年の7月30日から3種類の新紙幣が発行される。紙幣のデザインが変わるのは2004年以来、20年ぶりのことだ。一万円札に渋沢栄一、五千円札に津田梅子、千円札に北里柴三郎が描かれる。今回は、新紙幣に加え、これまで発行された紙幣の肖像になった偉人たちにまつわる名品を集めてみた。

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1984年(昭和59年)、一万円札の福沢諭吉、五千円札の新渡戸稲造と同時期に千円札に描かれたのが、夏目漱石だ。明治・大正期を代表する文豪で、『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『こころ』などで広く知られるいわば国民的作家。2004年(平成16年)、現行の野口英世が千円札の肖像に起用されるまで20年間も使われていたので、まだ記憶に残っている人も多いのではないだろうか。

新宿区早稲田にある「漱石山房記念館」のWEBサイトに、この時の千円札にまつわる裏話が書かれている。千円札の肖像になったのは、1912年(大正元年)に写真師・小川一真によって撮られた写真が元になっているという。意外なことに「身に着けている黒ネクタイと左腕の喪章は、撮影の約2ヶ月前に崩御した明治天皇に対する服喪の意思を示したものです」と書かれている。さらに漱石がこのとき着用した背広は、「漱石の門下生である内田百聞が譲り受け、陸軍士官学校や海軍機関学校の教官時代に盛んに着用しました」とある。紙幣に描かれた漱石の肖像ひとつに多くのストーリーがあることに驚かされる。

そんな漱石は数々の名作を書くときにどんな筆記具を使っていたのだろうか? 2011年に発行されたムック本『大人の文房具』(普遊舎)に漱石が愛用した万年筆のことが詳しく書かれている。漱石が執筆の際に使っていた一本が「オノト」という万年筆だ。英国のデ・ラ・ルー社が1905年(明治38年)に製造を始めた万年筆で、「どこの国でも発音しやすいようにと『オノト』と名付けられた」とその本に書かれている。1906年(明治39年)に早くも丸善が日本に輸入をスタートし、それを漱石が求めたのだろう。

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漱石が愛用した“幻の一本”

1893年(明治26年)に帝国大学(現・東京大学)を卒業した漱石はその後大学院まで進み、卒業後は松山と熊本で教師を務めるが、1900年(明治33年)に、文部省から命じられて英国に留学する。漱石が初めて万年筆を手にしたのはこの留学のときだ。その万年筆は親戚から餞別としてもらったものだったが、船の中で体操の真似をしていて壊してしまう。1912年(大正元年)の『余と万年筆』という随筆には、「オノト」に出会うまで、万年筆に対してあまり良い印象はなかったと漱石は書いている。それまで使っていた万年筆は、インクが思うように出ないし、よく漏れる。ところが明治時代の文筆家で丸善にも関わっていた内田魯庵に勧められて「オノト」を使い始めると、「大変心持よくすらすら書けて愉快であった」と感想を書き記している。

その後デ・ラ・ルー社は万年筆の生産を中止し、漱石が愛用した「オノト」は“幻の一本”と言われてきたが、輸入元であった丸善が1995年に発売したのが「丸善ストリームライン オノトモデル」だ。オノト万年筆の中でも名品として人気が高かった「ストリームライン」をイメージしてデザインされたモデル。

14Kのペン先とキャップリングには漱石愛用の原稿用紙にもあしらわれている龍の刻印が施されている。クリップには丸善のオリジナルの証であるコンパスの方位盤が刻まれていて、漱石と丸善の関係性が伺え、明治時代の匂いをも感じる秀逸な出来栄えだ。昔の「オノト」の素材はエボナイトだったが、この復刻版は樹脂製。太い胴軸のデザインながら、驚くほど軽量な設計が特徴だ。これならば、漱石のようにすらすらと筆が進むだろう。ちなみに前述の『余と万年筆』の原稿は、オノトの万年筆を使って書いたと漱石は書いている。漱石が一度で気に入ってしまったその書き味を、あなたもぜひ味わってみてはどうだろう。

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原稿用紙にも描かれた龍を模した14Kのペン先。夏目漱石をイメージした洒落たデザインだ。

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クリップ上部には丸善のシンボルマークである、コンパスの方位盤が刻印されている。

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漱石の多くの本の装丁を手掛けた橋口五葉がデザインした、漱石愛用の原稿用紙をイメージした丸善オリジナルの「萬年筆物語」。紙質や厚さは万年筆で書くことを想定してデザインされている。¥638/丸善ジュンク堂書店

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「萬年筆物語」に付属した吸い取り紙。イラストは丸善に残されていた古い図版を再現したもので、1916年に発売を開始した丸善オリジナルのアテナインキが描かれている。

 

丸善ジュンク堂書店 文具営業部

TEL:03-6380-1550
www.maruzenjunkudo.co.jp

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