京都を代表する芸術祭として定着した「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭」。2020年からは3人の共同ディレクターが指揮をとる。実験的なプログラムを組む運営手法から、芸術フェスの世界的な潮流、京都の地ならではの“こだわり”にまで話は及んだ。
Pen4月号の第2特集は『ダンスを観よう』。
社会におけるデジタル化が進むにつれ、フィジカルな体験や「場」の共有が重要性を増している。写真や映像といった二次元の複製可能な芸術作品でさえ、今日ではそれが発表される方法や受け手と共有される空間が意識された上での展示がなされている。その意味では、代替えの効きづらい身体をメディアとするダンサーの表現は、個性を消しづらいぶんだけ、受け手との一期一会の“出会い”を、「いま、ここ」という“時代性”を浮き上がらせる。そして、ダンスが面白いのは、音楽、美術、照明、映像、衣装などさまざまな要素が絡み合った複合的な芸術であるということだ。20世紀のバレエとダンスの歩みを振り返りつつ、プロデューサーやアーティストなど、さまざまな視点から「ダンスのいま」を捉え、その魅力を紹介する。
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2010年に始まり、次回で15周年を迎える「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭」。「KEX(ケックス)」の愛称で知られるフェスティバルは、20年から3人の共同ディレクター体制をとる。3名は、舞台芸術プロデューサーの川崎陽子、アーティストの塚原悠也、元KEX広報のジュリエット・礼子・ナップだ。コレクティブ(集合体)のシナジーがどう「エクスペリメント」を展開させているのだろうか。共同運営やフェスティバルでの仕事について、川崎が説明する。
「美術の世界と同じく、舞台芸術でもコレクティブ体制は増えています。欧州では共同ですること自体が、よくも悪くも、ひとつのテーマという印象さえある。ひとりに集権する体制を見直そうということですね。フェスティバルの仕事の特性は、『期間限定』ということが大きいでしょうか。公立劇場では、年間を通じてやるべきことがありますが、フェスの場合には、その義務や土台から距離を置き、異化的なことを『イベント』として仕掛けることができます」
KEXの、イベントという特異性についてナップが補足する。
「KEXの企画は既存のルールをずらす面もあります。紹介する作品は、実験的で、劇場の年間プログラムで実現しにくいものもある」
KEXの尖った演目はディレクターたちの自覚に基づいていることがわかる。では、演目選びの難しさとはなにか。美術の分野にも明るい現代アーティストの塚原は「タイミング」だと考えている。
「舞台芸術など上演作品は、美術作品と比べて実体が残りにくい。対象が物ではなく、生きている人間。右から左へとはいかないので、タイミングも必要なんですよ」
人種や民族問題、ジェンダー、セクシャリティといった時代とともに醸成される価値観や社会規範。そういった舞台ゆえに露呈する「ライブ性」も考慮する必要があると、10年以上KEXに携わってきた川崎は体験を伴って語る。
「生身の身体ですからね、そこには政治性が生じやすい。わずか数年前の作品でも、これはいまは見せられない、と思うものもあります。私たちが『いま』にこだわるのは、そうしたことも関係している。日本で、京都で、『いまだ!』というものを選んでいます」
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新体制以降、KEXでは招聘アーティストの地域性にも変化が見られた。「もしもし⁈」「ニューてくてく」「まぜまぜ」といった近年のキーワードもこれまでにない特色を持つ。そしてそれはKEXがこの地で国際芸術祭を行う意味をうかがわせる。塚原は言う。
「西洋のいわばカッコイイ系アートへの憧れは僕にもあります。ただ、それがなぜ起こっているのかを再検証してもよい頃かと。西洋文化圏をお手本にする価値観を見直す時期に来ていますし、日本のオノマトペ的なやわらかさで考えていくのもアリかなと」
日本の立ち位置、アジア地域との連携という点で川崎が続ける。
「19年までのKEXは、欧州の最先端と、南米の新しい文脈を比較的多く紹介してきました。私たちはもう少し自分たちの周りを見てみようと。自分がいま立っているところを、その地理や歴史を意識しながら、考え直さないといけない。欧州は通貨も同じで移動がしやすく、ネットワークをつくりやすい。それは舞台芸術に関していえば、作品をツアーで回しやすいということでもある。経済的にやりやすいんですね。しかし、アジアやオセアニアは文化も違うし、距離も遠い。でもそういう中でこそ、どんな協働の仕方があるかを考えることができ、新たな手の握り方を生み出せるかもしれない」
その新回路の生成に既に取り組んでいるとナップは付け加える。
「たとえば私たちがアジア圏でしていることは、単なる市場調査ではなく、長期滞在をし、現地でいろいろと調べ、学び、そこでアーティストとつながるというもの。そういうリサーチとスタディに基づく関わりを増やしていきたい」
このネットワークづくりは、ひとりでするよりも、それぞれに専門性やバックグランドの異なる共同体制のほうが有効であろう。
KEXではダンスの演目も一風変わっている。それに対する観客の反応はどんな感じなのか。
「昨秋のKEXで上演されたアリス・リポルの作品のように、“ぬるっ”とした感じはダンスならではですね。言語で認識するのとは違う、観客個々人の身体で直接知るというような体験です。それは、生ものにふれる感覚というか、KEXのキモですね」
自身も表現者として作品を発表する塚原は、KEXならではの面白みを挙げる。一方で、観客への理解を深めるとともに“可能性”をより感じたというのは川崎だ。
「身体表現は、わからないことをわからないままに受け止められる、というところがありますよね。これも昨秋の公演ですが、デイナ・ミシェルのライブパフォーマンスは、彼女独特のダンス言語でなされ、3時間の間、出入り自由なんです。観客は最初『なにを見せてくれるのかな』といわゆるお客さんモードでしたが、次第に『あれ? このままいく?』みたいな気配が会場に広がり、途中から『まぁいいか』と(笑)。自分で楽しみ方を見つけている様子でした。私はそれを会場で見ながら、KEXに来てくれる人たちってすごいなと思ったんです。100人を超える人が、作品とそういう関わり方をしていて。それは観客を信じられる時間で、希望を感じました」
その公演のアンケート用紙の中に「なんかわからなかったけれど、それがよかった」という感想があったことをナップは教えてくれた。KEXは観客に「自由」とはどういうことなのかをちゃんと伝えているのだろう。
文・監修:富田大介
明治学院大学准教授
研究領域は美学、芸術社会論、ダンス史。レジーヌ・ショピノの振付作品に多く出演するほか、芸術選奨や文化庁芸術祭の推薦・審査委員なども務める。編著に『身体感覚の旅』、共著に『残らなかったものを想起する』など。