甲和焼は、東京オリジナル、さらにいえば江戸川区オリジナルの焼き物だ。それは、東京都江戸川区小岩で掘削した土を原料にした粘土でつくられているからである。まさにここにしかない、唯一無二の焼き物だ。甲和焼の創始者、林信弘さんが、生まれ育った地元・小岩の土「甲和土」を使って陶芸を始め、それを「甲和焼」と名付けたのは、いまから50年以上前のこと。
きっかけは、いたってシンプルだった。
「大学生の時、テレビで人間国宝の陶芸家がろくろを挽いているのを見て、やってみたいなーと思った。ただそれだけなんです」
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とはいえ、50年以上前にはインターネットもなければ、書店にも陶芸関係の専門書はほとんどなかった。それでも、古本屋で手に入れた資料の中にある数ページの記述を頼りに、なんとかつくり方を頭に入れた。しかし、問題は粘土だった。
「粘土がどこで買えるのかわからず、とりあえず自分の家の庭の土でやってみようと思ったんです。小さい頃に庭の土を掘ったことがあって、掘れば粘土が出てくることは知っていましたから」
ところが調べてみると、東京の土は昔から焼き物に適さない土だといわれていたことが発覚。東京の土は、太古の昔に富士山や箱根山などの火山活動によって噴出した火山灰が堆積してできた関東ローム層という地質で、鉄分やアルカリ成分が多く、耐火力が弱いといわれていた。
「耐火力が強くないと、焼き物には使えません。でもね、私はここの土でつくってみたかったんです。適さないといわれても、いろいろ工夫をしてみればできるんじゃないかと思ったんです」
林さんの作業場の奥からは、年季の入った書物や、土と水の配合などを記した山積みのノートが出てくる。
「教えてくれる人なんて誰もいませんから。すべて自分でやってみて、失敗を繰り返すしかないんです。当時の高校で使われていた化学の教科書なんかも意外と役に立ちました」
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焼き物に向かないといわれる土でも、精製に工夫を凝らしたり、その土にあった焼成温度を追求していけば、焼き物ができるのではないか。林さんは大学を中退して陶芸の道に邁進。飽くなき探究心で研究と試行錯誤を繰り返し、ついに1100℃以上の高火度で焼成した陶器をつくり上げることに成功した。
林さんはこの作品を「甲和焼」と名付けた。その理由は、小岩の地域は奈良時代に「甲和里(こうわり)と呼ばれていて、その響きがいまの地名の由来になったという説を聞いたことがきっかけだったそうだ。
1981年、35歳の時に甲和焼の壺が日本陶芸展に初入選。
「小岩の土と格闘しながら10年以上経った頃でしたが、長年、自分が信じてやってきたことが世の中に認められたようで嬉しかったですね」
林さんはその後も土や釉薬の研究を続けながら、伝統的な陶芸の技法に独自の技法も取り入れて、さまざまな作品を生み出している。
たとえば「甲和土貝跡焼(こうわどかいしょうやき)」は、ざらっとした質感の表面の所々に雲がかかったようなこげ茶色の照りが出ていて、独特の味わいがある。これは器を窯で焼く際に、すぐそばに貝殻を置いて焼く「貝跡」というオリジナルの技法。焼くと貝殻から発生するガスが器の土の成分と化合して、模様のような照りが出るというのが不思議だ。また、真っ白な雪を思わせる美しくもほっこりする姿のぐい呑み「甲和土白釉(こうわどはくゆう)」は、白い釉薬がオリジナルで、土は2017年に工房を建て替える際に地面を掘って採取したものを約3年かけて精製したという。オリジナルの釉薬は他に、独自の調合で、虹色に発色することから「紅燦釉(べにさんゆう)」と名付けられたものも。
「これとこれとこれを、こうして合わせて、窯で焼いてみたらどうなるんだろうって、実験するのが楽しいんだよね。失敗もたくさんありましたけど、(陶芸を)やめようと思ったことは一度もありません」
研究を繰り返しながら生み出した作品を次々と見せてくれる林さんの表情はとても無邪気で、見ていてこちらまでワクワクさせられる。小岩の土を使った林さんの作品には、土そのものの温かさの中に、遊び心が散りばめられている。
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そんな林さんの情熱とこだわりから生み出された作品の数々が並ぶ「甲和焼 芝窯(こうわやき れいしよう)」の工房・店舗は、JR小岩駅から徒歩数分。1972年に林さんが自らの生家をいまでいうDIYで改装し、畳約3畳の作業場と約6畳の店舗を併設して始まった場所だ。その後、拡張を重ね、いまでは小岩の土の特徴である深い茶色の壁とレンガタイルに囲まれた立派なギャラリーのような建物に。そして、そこには2005年から陶芸を始めた林さんの娘、理子(あやこ)さんの工房もある。
生まれた時から信弘さんの背中を見て育った理子さん。
「父の姿は見ていましたが、自分も陶芸家になりたいと思ったことはありませんでした」
専門学校で建築を学び、大学職員として建築設計や現場管理の仕事に就いた理子さんだが、20代後半を迎えた頃から、徐々に自分にしかできないことは何だろうと考えるようになったという。
「なぜだかその時に、真っ先に浮かんできたのが父の仕事でした。ちょうど芝窯のホームページを私がつくっている頃で、父の仕事のことをいろいろと調べていくうちに、『陶芸って奥がとても深くて、実はすごく面白いのかもしれない』と思い始めたんです。でも、父がずっと独学で苦労してやってきたのを見ていたので、これは生半可な気持ちではできないなと。悩んで友達に相談したら、『案ずるより産むが易しでしょ』と言われて。それで、当時やっていた仕事を続けながら、休みの日に少しずつ作品づくりをしてたのが始まりでした」
ろくろを挽く練習から始めたものの、何カ月経っても全く思うようにいかず、「なんでお父さんは簡単にできるのに、私はうまくできないんだろう」と、焦る日々が続いた。
「父はこれが正しいやり方というものはないから、『自分のやりたいやり方で、この形をつくるにはこの指の力を使うんだ、とわかるようにならないといけない』と言って……。特に指導してくれるようなことはありませんでした」
自分で納得がいかず、ろくろを挽いては形になったものを壊し、ひいては壊す、を繰り返して半年が過ぎた頃、痺れを切らしたのか、信弘さんから「もうそろそろ焼いてみたら?」と声をかけられた。
「仕事はまだ続けていましたが、その頃から少しずついまのスタイルに近い作品をつくるようになって。自分のホームページもつくって作品の写真をアップしていたら、ある時、都内のギャラリーから『うちの店で個展をやってみませんか』と声をかけていただいたんです」
2006年、初めての個展を開催。これが理子さんの転機となった。
「自分がつくりたいと思ってつくったものを、自分をまったく知らない多くの方々が見てくださって、しかも、気に入って買ってくださる。それってすごいことだと感じました。これを続けていたら、自分にしかできないことができるかもしれない、とその時に思いました」
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理子さんは2008年に仕事を退職し、作陶に専念するようになった。そして、その後、甲和焼きに加えて新たに自らのブランド「nicorico」を立ち上げた。
日々の生活を大切にしているみなさんに、使っていて思わず“にっこり”笑顔になってほしい。そんな思いをコンセプトに陶磁器の表面を削り、異なる色を出して模様にする技法である伝統的な「掻き落とし」の技法を使いながら独自のセンスで模様を入れた「紋花彩泥掻落(もんかさいでいひきおとし)シリーズ」など、カラフルでポップな雰囲気ながら、インテリアにも馴染みやすいデザイン。林さんの重厚感のある作品もいいが、理子さんの作品もまたいつまでも眺めていたくなる良さがある。
「自分のお気に入りのものに囲まれて暮らすことの楽しさを感じていただけるような器……といっても高級すぎず、それでいて量産品とは違う一点物の魅力を味わっていただけるような、そんな“ちょっといい普段使い”の食器や小物をつくっていきたいと思っています」
これだ、と思ったことにはとことん突き進む。父と娘、そんなところはよく似ているようだ。
甲和焼 芝窯・nicorico
1972年に林信弘さんが芝窯を立ち上げる。独自の研究、創作を繰り替えし、生まれ育った小岩の土を用いて焼き物をつくることに成功し「甲和焼」と名付ける。娘の理子さんは、父の信弘さんに師事し、現在はカラフルで日常に取り込みやすい作品を生み出し続けている。
東京都江戸川区南小岩8丁目20−10 カーサ・セラミカ 1階
電話:03-3657-5015
nicorico.ocnk.net