かつてスイスの時計工房では、採光に恵まれた屋根裏部屋(キャビネット)で時計師や細工職人が精密な作業に勤しんだ。ヴァシュロン・コンスタンタンが毎年発表する「レ・キャビノティエ」のコレクション名はこれに由来する。それは270年近いメゾンの歴史と伝統にふさわしい、過去と未来をつなぐ現在地に他ならない。今回発表された新作9本でも特に注目したのがアールデコをモチーフにした逸品だ。
20世紀という新たな時代が幕を開け、時計の主流も旧態然とした懐中時計からよりアクティブな腕時計へと移り変わる。牽引役となったひとつがアールデコだ。これは20世紀初期から1930年代にかけてヨーロッパで台頭した芸術潮流で、変化する当時の社会や人々の価値観、ライフスタイルにも大きな影響を与えた。時計においてもその斬新なデザインはもちろん、袖を捲り、時を見遣る仕草も当時新鮮に映ったに違いない。アールデコの名は1925年に開催されたパリ万国博覧会から名付けられ、さらにヨーロッパからアメリカへと伝播。独自の進化を遂げたアメリカン・デコとしてニューヨークの摩天楼の建築様式を席捲したのだった。
新作の「レ・キャビノティエ・ミニットリピーター・トゥールビヨン - アールデコ様式への賛辞 -」は、こうした腕時計のデザインを開花させたアールデコ様式にオマージュを捧げる。文字盤は、1928年から1930年にかけて建設されたアメリカ・ニューヨークのクライスラービルの特徴的な段状の尖塔をモチーフにする。装飾には木工のマルケトリー技法とシャンルベ技法をブランドでは初めて組み合わせた。
まず梨の木とユリノキをブラックとブルーで染色しなめらかに仕上げた後、110枚の小さなパネルにカットする。さらに地金を削り取り、凹部に象嵌するシャンルベの技法を用いて、カットした木片でモザイクのようにはめ込んでいく。このゴールドの縁取りによって放射状に広がる剣型の幾何学パターンがより一層際立つのだ。こうしたプレートを2層に重ね、立体感と奥行きも演出している。
さらにケース、ベゼル、ラグにはくまなく精細なインタリオ彫金が施されている。ヘリンボーンのパターンはクライスラービルの建築様式から着想を得ており、アールデコの優美と創造性のリデザインなのである。
レ・キャビノティエは、現代の時計業界を俯瞰しても稀有なコレクションといえる。それは、かつて王侯貴族や特権階級が自分だけの時計を求めたように、特別な顧客の依頼でつくられる世界に1本のユニークピースだからだ。製作を担うのはアトリエ・キャビノティエと名付けられた専門部署で、デザインや素材、装飾はもちろん、専用ムーブメントまでフルオーダーに対応するため、独創的な技術の研究開発と、クラフトマンシップを注ぐ伝統的な装飾技法の研鑽が日夜行なわれている。こうしたアトリエ体制を社内に備えるのはスイス高級ブランドでも極めて珍しい。
ただしそれはあくまでもプライベートなオートクチュールであり、ほとんどが一般に公開されることはない。そこで用いられた機構や装飾技法の一部をコレクションとして毎年発表し、いまも進化を続ける技術と文化を広く伝えているのだ。
装飾においては、エングレービング(彫金)、エナメル、ジェムセッティングといった美術工芸の技法を継承する一方、ムーブメントもそれぞれのモデルに応じて革新的な機構を搭載する。「レ・キャビノティエ・ミニットリピーター・トゥールビヨン - アールデコ様式への賛辞 -」はその名の通り、二大複雑機構を融合した。
搭載する自社キャリバー「2755 TMR」は、メゾンの創業250周年に当たる2005年に発表された「トゥール・ド・リル」に搭載した16種類のコンプリケーションから派生したもので、厚さわずか6.1mmの薄さに最高峰の複雑機構を収めた。文字盤に穿たれたトゥールビヨンやケースサイドのさり気ない打刻スライダーの存在感に加え、その薄さでもハイウォッチメイキングを証明するのである。
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アールデコの先進性を讃える二大複雑機構
レ・キャビノティエは毎回コレクションテーマを設け、今回は「レシ・ドゥ・ヴォヤージュ(旅の見聞録)」が掲げられた。19世紀初頭、メゾンは新たな販路を求めてスイスから世界を巡り、名声と繁栄を築いた。こうした先人の旅の足跡を辿り、メティエ・ダールと呼ばれる熟練職人の装飾芸術と精緻な時計技術で讃えるのである。特にニューヨークへの旅は、伝統的なメゾンの時計づくりに自由な発想と創造性を培ったのだ。
ヴァシュロン・コンスタンタンは、1832年にニューヨークで最初の拠点を設け、アメリカ市場でのスイス高級時計の地位を確立した。国を代表する名家や実業家、芸術家たちに愛用され、1890年に人類初の動力飛行機を開発したライト兄弟の依頼で太ももに固定する初期の飛行用時計も製作した逸話も残る。
さらに経済繁栄により社会の変革を促した狂騒の20年代には、アメリカ市場に向けて特別にデザインしたクッションケースの「アメリカン1921」を発表。文字盤とリュウズ位置を通常よりやや回転させた斬新なスタイルは当時のモータリゼーションとも結びつき、ドライバーの腕元を飾ったのだ。この時期に頂点を極めたのがアールデコであり、こうした時代の息吹は新たな価値をもたらした。「レ・キャビノティエ・アーミラリ・トゥールビヨン - アールデコ様式への賛辞 -」はその進取の精神を宿している。
ブラック文字盤の左右には、180度の瞬時ダブル・レトログラードの時分針と、シリンダー型のヒゲゼンマイを備えた2軸トゥールビヨンを搭載する。アールデコ建築のエレベーターの昇降表示のような計時に、ドーム状に盛り上がった風防越しのトゥールビヨンキャリッジはまるでスチームパンクのようだ。
搭載する「キャリバー1990」は、2016年に「メートル・キャビノティエ・レトログラード・アーミラリ・トゥールビヨン」で発表されたもの。さらにその源流には前年に発表されたスーパーポケットウォッチ、「リファレンス57260」がある。これは57の複雑機構を搭載し、時計史上最も複雑なハイコンプリケーションとして知られ、アトリエ・キャビノティエで完成までに8年がかけられた大作である。
「アーミラリ」の名は、18世紀フランスの時計師アンティード・ジャンヴィエが製作した天文時計に組み込まれた天球儀を模したことに由来する。このマルチゲージトゥールビヨンをはじめ、レトログラードの瞬時復帰機構、ヒゲゼンマイをテン真に固定するヒゲ玉のチタン採用、調整可能なレバー脱進機の4件の技術特許を出願。これまでレ・キャビノティエでのみ採用された超絶技巧の象徴だ。
さらに装飾においても見どころは数多い。シースルーバック越しの3分割ブリッジには、ニューヨークの高層ビルのアールデコ装飾をモチーフにバ・ルリエフ(浅浮き彫り)を施し、ベルサージュ(点刻)で縁飾りを仕上げる。さらに地の部分を削り取り、グレイン仕上げによる光の陰影が、より立体的に彫金を際立たせる。分割ブリッジの絵柄が途切れることなく連続した彫金は高度な技術を要し、レ・キャビノティエでも初の試みだ。作業には3つのブリッジを正確に位置づける専用ツールから開発し、完成までに1カ月がかけられた。
ヴァシュロン・コンスタンタン
TEL:0120-63-1755
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