『ゴジラ-1.0』が公開中。戦後直後の東京が襲われるとは予告編からもわかっていたが、戦争直後のどん底の日本で太平洋戦争の2回戦に挑む者たちの話だと知って驚いた。なるほどそうきたか。
敗戦で軍隊は武装解除、政府もGHQの統治下に置かれている。となればゴジラ対策はなし崩しで民間でということになる。立ち上がるのは、大日本帝国陸海軍の残党たち。この話をナチスに置き換えるとやばさが伝わるだろう。戦争の結果に不満を抱える元軍人たちが謀議を企てているのだ。すなわち再軍備。そんな話が『ゴジラ-1.0』である。
主人公たちは、皆一様に「自分の戦争はまだ終わっていない」と思っている。情報を国民に隠蔽するような政府が主導した戦争。補給を軽視し、人命を無視した兵器開発、特攻作戦を実行した軍の上層部。将校も兵士も現場で戦った者たちが、これでは勝てないと考えていたのはもっともな話だ。かつて「ベンチがあほやから野球でけへん」といって阪神タイガースを去った江本孟紀を思い出す。
エリートたちが現場をかえりみないでものごとを進めて行き詰まる。今でもそこかしこに見られる普遍的な構図である。そもそも日本の社会は、学歴エリートをもてはやし、過剰な期待を寄せるところがある。問題は、エリートを重用することではなく、エリートのみの多様性のない組織を作るところだろう。
例えばこの10月の番組改編されたばかりのキー局の夜の看板ニュース番組のウェブサイトを見てみる。トップページにキャスター、記者たちの写真が貼られている。意地悪く出身大学を調べてみた。「上智、明治、慶応、慶応、慶応、東大、明治、慶応」となる。ここにさらに「東大」と「慶応」を中心としたコメンテーター陣が加わる。エリートだけを並べるニュース番組はつまらない。
歴史を見ると、エリート偏重社会が行き詰まり、反動としての大衆が力を取り戻す時代が何度も登場してくる。その典型は、太平洋戦争だ。陸軍のエリートたちが大陸で先走って始まった戦争。さらに陸軍と海軍のライバル競争も、エリート主義同士の張り合いをしているうちに行き詰まった。この戦争には、国民が戦争を支持し、それに迎合した政治が生まれたというポピュリズム的側面もあった。エリート主義とポピュリズムは、基本的には交互に訪れるが、たまに両者が両輪となった事態が行き詰まることもあるということだろう。
野球もエリートだけが勝つわけではない。ジャイアンツやホークスが、膨大な資金でエリートを集めて強いチームを作るが、それに対抗して生え抜きでコツコツ戦うタイガースが日本一になることもある。4番打者でも次につなぐバッティングが功を奏して日本一をつかむことがあるから野球はおもしろい。
さて、思い返せば『シン・ゴジラ』は、理系のエリート官僚たちがゴジラの進撃を止める話であった。"巨災対"の面々は、はみ出したオタクたちではあるが、対策本部は恵まれた環境で無限の装備を手に入れることができた。特権的な行政執行機関の話。つまり、エリートたちの戦いだった。一方、『ゴジラ-1.0』は、独立愚連隊、いわば民間組織がゴジラを退治する話。エリートとポピュリズムが繰り返す構図は、庵野秀明と山崎貴のゴジラの違いを示すキーワードでもあるのだ。
『ゴジラ-1.0』で繰り広げられるゴジラ相手の戦争の2回戦は。かなりポンコツなものだった。作戦も装備も人材もみな素人芸の域を出ない。ただエリートが使いものにならなかったのだから仕方がないといったところ。
ゴジラは、何度も何度もリメイクされ、シリーズが続いている。ゴジラ文化の中に、エリート寄りの知識偏重、作家至上主義的なマニア受けの要素もあれば、大衆受けの側のゴジラもある。そもそもゴジラは、都市を壊す。権力や富の集中する場所である都市を壊すのは、大衆願望の表れのようなところがある。次にゴジラが壊すのは、どこだろう。万博会場か神宮外苑か。