エンジニアのための耐磁時計として1955年にデビューしたIWC「インヂュニア」。その傑作とされるのが、ジェラルド・ジェンタがデザインを手がけた76年製の「インヂュニア SL」である。2023年、この傑作にオマージュをささげた「インヂュニア・オートマティック40」が誕生し、大きな話題となっている。なぜジェンタは、いつまでも愛されるタイムレスなデザインを生み出せたのか? 日用品から鉄道車両、伝統工芸まで、ジャンルを横断するプロダクトデザイナーの鈴木啓太が、その裏側を読み解く。
研ぎ澄まされたデザインに見る、デザイナーの信念
「ヨーロッパのデザイン関係者とお話しすると、彼らは“歴史”に重きを置いており、その“遺産”こそがラグジュアリーにつながっていると感じます。スイスの伝統的な機械式腕時計のデザインは、他のプロダクトと比べると一見変化が少ないように見えるかもしれない。しかしその一方で、技術は進化している。2016年にスイスの時計メーカーの工房を見学させてもらいましたが、マテリアルの製造工程や工作機械の進化には驚かされました。基本的なスタイルは変わってないように見えますが、そういったある種の抑制されたデザインの中に、革新がたくさん詰まっている。そこが現代の腕時計の面白さなのでしょう」
研ぎ澄まされたデザイン。それは鈴木さんが得意とするところでもある。
「相模鉄道の車両のデザインを手がけたことがあります。電車は社会と密接にかかわるので、やはり様々な要素において考え抜かれたデザインが求められます。個人的には、こういったルールの中で緊張感をもってデザインを詰めていくことにも、大きなやりがいを感じますね。常に新しい領域で仕事をしたいと思っていますし、手掛けるプロジェクトが属するジャンルの歴史を俯瞰した上で、『次にこういうデザインがあるべきでは?』と考えるのが好きです」
専門領域を飛び越えて世界を広げ、深さを知っていくことに喜びを感じる鈴木さんは、IWCの時計のデザインをどう見るのか?
「ケースのラインの出し方やサイドのシルエットの詰め方などに、プロフェッショナルの技を感じますね。さらに装着すると、ここまで考えこんでつくり込んでいるのかと驚きがある。世の中には美しいモノがたくさんありますし、“人の手の感覚”はどんどん鋭くなっていると思います。そういうなかでも腕時計を身に着けると、そのすごさがわかります」
もしも鈴木さんが腕時計をデザインするなら、どういうアプローチをするのだろうか?
「自分のデザインを言葉にするなら『堅実な革新』でしょうか。少しずつその世界を進化させていくのが好きです。人類の歴史を振り返ると、どんなものであっても突然生まれるのではなく、多くの人が関わりながら少しずつ進化して、現在に至っていますよね。そういうところにロマンを感じるので、なにか奇想天外なデザインを考えるのではなく、既存のモデルを踏まえつつ、いまの時代と未来へ向けてどんなデザインを提案できるのか興味があります」
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時代が生んだ、ジェラルド・ジェンタのデザイン
「インヂュニア SL」が生まれたのは1976年。当時のスイス時計業界は、クオーツ革命の影響もあり市場規模が1/3に縮小。しかしそんな冬の時代だからこそ、新しいスタイルの時計をつくるという挑戦が可能だったともいえる。新進気鋭の若手デザイナーであったジェンタにIWCが時計のデザインを依頼したのも、ひょっとするとデザインの力で閉塞感を打ち破る狙いがあったのかもしれない。
「デザインは時代の写し鏡です」と、鈴木さんは続ける。
「当時の業界は混沌としていて、新しい技術が次々と台頭していく。そんな中で自分たちが大切にしている本質的なもの、機械式時計でいえば『クラフト』のような概念をしっかりと突き詰めたい。そしてイノベーティブな発想も加えたい。そんないろんな背景が複雑に絡み合って、インヂュニアSLができたのでしょう」
ジェンタの時計デザインの特徴は、ソフトでエルゴノミック。薄型化のためにケースとラグを一体化し、腕へのフィット感を高めている。しかしインヂュニアは耐磁用の軟鉄ケースを組み込む必要があるため、薄型化は困難だった。しかも当時のIWCに薄いムーブメントがなかったため、薄く設計するには苦労したという。しかしベゼルをねじ込み式にするなどの工夫によって、12気圧防水と耐磁性を兼ねながら、ケース厚はわずか12㎜に収めた。
今年誕生した「インヂュニア・オートマティック40」は、当時はできなかったことをきちんと解決しており、新しい自社ムーブメント「Cal.32111」を搭載することで、10.7㎜というさらなる薄型化を実現した。ベゼルも薄型化し、初代モデルではズレが気になった5つの穴の位置も、きれいに左右対称となった。
いわば「インヂュニア・オートマティック40」は、いまは亡きジェンタが現在の技術を用いたら、どんなインヂュニアをデザインしただろうかという目線から生まれたのだ。
「僕も完成された作品にオマージュを捧げながら、新たなデザインを手がけた経験があります。2019年に建築家のフランク・ロイド・ライト生誕150周年を記念して行われたプロジェクト『HOMMAGE TO FRANK LLOYD WRIGHT』に参加した時のことです。フランク・ロイド・ライトがデザインした名作照明「タリアセン」に独自の解釈を加え、デザインしました。デザインにあたって、まずは現存しているライト建築をできるだけに見に行き、資料を読めるだけ読みました。建築家やデザイナーは、さまざまな葛藤を抱えながらモノをつくっている。その中には、彼らが絶対に守りたかったものがあるはずです。いうなれば彼らの“愛”ですね。オマージュ作品というのは、なぜこれをつくったのか、なにを伝えたかったのかなど、彼らの愛を探すことからスタートします。そういう意味で、この新しいインヂュニアには愛を感じました」
新しいインヂュニアを見た妻のエヴリーヌ・ジェンタは「これはジェラルドが好きなデザインです。彼が生きていたら、きっと喜んだでしょうね」と言ったという。彼の仕事を最も近くで見ていた妻も認めるインヂュニア・オートマティック40は、ジェンタへの愛が結晶化したものでもあるのだ。
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傑作は多くの葛藤から生まれる
同じプロダクトデザイナーとして、鈴木さんはジェンタが「多作」であることにも注目する。
「僕が好きになるデザイナーやクリエイターは、仕事の幅が広い。ジェラルド・ジェンタは時計のデザイナーでしたが、インヂュニアのような時計からミッキーマウスの時計、そして自身が立ち上げたブランドまで、数多くの作品を手がけてます。裏を返せば、たくさんの葛藤があったと推察できます。あらゆる芸術に共通することですが、優れたクリエイターは多作であることが多い。いろいろな意見をもつクライアントがいて、自分と他者がぐちゃぐちゃに混ざり合いながら、時代や環境を読み解いてデザインをしていく。その中のいくつかが、のちに名作といわれるだけなんです。ジェンタのスケッチは本当に面白いし、ワクワクします。彼の頭の中を覗いてみたくなります」
インヂュニアSLもまた、薄型化と防水性、耐磁性という異なる個性をまとめるにはどうすべきか?という葛藤から生まれた。それゆえ、時計界で特別な存在となったのだ。
そして、そのデザインを継承するかたちで、「インヂュニア・オートマティック40」が生まれた。誕生から47年を経た現代でも、ジェンタがつくり上げたデザインが色褪せることはない。しかし、今日の高級時計業界は、流行り廃りのスピードがどんどん速くなっているのも事実だ。長く愛されるデザインには、なにが必要なのだろうか?
「言い古されているかもしれませんが、やはり美しさと機能性の融合ということでしょう。どれだけ美しいものでも、快適さがなければ誰も長く使わないし、大切にしようとは思わない。しかしどれだけ使いやすくても、見た目や感触が悪ければ、それを大切にしようとは思わない。もちろんその感覚は人によってさまざまですが、やっぱり多くの人たちに愛されているものは、美しさと機能性が高いレベルで融合している。ジェンタのインヂュニアが、いまでも評価されているのも同様の理由でしょう。使っているうちに、計算されたディテールに気が付き、そして自分の体と一体化していく。それがジェラルド・ジェンタのデザインなのだと思います」
IWC
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