『仮面ライダー』の原作者・石ノ森章太郎は、同作に至るまで、どんな作品を描いてきたのか。そのキャリアを振り返りながら、構想までの軌跡を追う。現在発売中のPen最新号『シン・仮面ライダー徹底研究』より抜粋して紹介する。
Pen最新号『シン・仮面ライダー徹底研究』では、映画『シン・仮面ライダー』の公開に合わせ、初期のテレビシリーズや石ノ森章太郎の功績を振り返りながら、庵野秀明監督をはじめとするクリエイターたちのこだわりや、仮面ライダーやサイクロン号などのデザイン、出演者たちの想いを徹底取材!
『シン・仮面ライダー徹底研究』
2023年4月号 ¥950(税込)
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手塚治虫に見出された、漫画の天才少年
漫画作品の執筆だけでなく、アニメから特撮テレビ番組まで、膨大な人気作品の原作をつくることになる石ノ森章太郎は、1938年、小野寺家5人兄弟の長男として宮城県登米郡(とめぐん/現・登米市)石森町で生まれた。
小学生の頃、手塚治虫の伝説的作品『新宝島』に衝撃を受け、手塚の大ファンとなった石ノ森。映画監督に憧れたものの、生来病弱だった3歳上の姉のために、身の回りの出来事を絵に描いて見せたのが、漫画を描く原点だった。
石ノ森の漫画熱は高校生になっても冷めず、雑誌『漫画少年』への漫画投稿の常連であり、その仲間と東日本漫画研究会を結成。業界では「宮城県に天才がいる」と噂になっており、高校2年生の春、手塚から請われて『鉄腕アトム』の臨時アシスタントを務めている。54年、『二級天使』でデビューを飾ったのも手塚の推薦だった。
その後、石ノ森は、卒業と同時に上京して若手漫画家たちの梁山泊だったトキワ荘に住み、プロとしての作家活動を始める。そして仲間たちから受けた刺激と、原稿料をつぎ込んで買った本や映画から寝る間を惜しんで吸収した膨大な知識が、後の作品にも活かされていくのである。
ところが58年3月、石ノ森の後を追って上京し、最大の理解者であった姉が急逝。この悲しい出来事をきっかけに、石ノ森作品は大きく舵を切り始める。
翌年、東映動画(現・東映アニメーション)の劇場アニメ『西遊記』の制作現場にスタッフとして招かれた手塚が、忙しすぎる自分の代役として石ノ森を指名。この背景には、最愛の姉を失い、失意の底にいた石ノ森を励ます意味もあったことは想像に難くない。石ノ森は映画完成後、アニメ界に身を投じたいと訴えたが、当時、若手演出スタッフで後に東映動画専務となる白川大作から、絵が個性的で、他人がデザインした絵を動かすアニメには向かないと説得され、やむなく断念。しかし「漫画が売れたらアニメにする」と約束され、66年のアニメ映画『サイボーグ009』でその夢は実現。これが、石ノ森が映画会社東映との接点をつくる端緒となった。
また同じ時期の57年に刊行を開始した新書『ハヤカワ・SF・シリーズ』は全巻を読破し、59年に日本初のSF小説専門誌『S–Fマガジン』が創刊されると、次々に翻訳される最新小説を読みあさり、造詣を深めていくのである。
61年8月、石ノ森は、まだ日本で海外旅行が自由化される前の時期に、70日間の海外旅行に出発する。名目はアメリカで開催されるファンイベント、SF大会の取材というビジネス目的であったが、「ボクは生きている間にやっておきたいことの手始めに、子どもの頃からの淡い夢であった、外国旅行を選ぶことにしたのだ」(『世界まんがる記』)と、当時の心情を語っている。やはり肉親の死が大きく影響していたのだろう。
当時『S–Fマガジン』などで翻訳家として活動していた作家・矢野徹に紹介状を書いてもらい、著名なSF研究者フォレスト・J・アッカーマンを仲介者として、ロバート・A・ハインライン、フレデリック・ポール、ポール・アンダースンなど、世界に名だたるSF作家陣を紹介してもらっている。これが後に『仮面ライダー』へとつながる、石ノ森のSF熱に拍車をかけることになった。
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『仮面ライダー』の誕生前夜、SFへの熱が噴出した作品の数々
『仮面ライダー』は71年にテレビ放送および雑誌連載が始まったが、そこに至るまで石ノ森はどのような作品を描いてきたのだろうか。その前夜となる60年代の代表作をたどってみたい。
64年、石ノ森は『週刊少年キング』で『サイボーグ009』の連載をスタートする。堰を切ったようにSF作品の執筆が増えるのは、この時期だ。ほかには超能力もの『ミュータントサブ』(65年)、ロボットもの『アンドロイドV』(65年)、SF的味付けの少女漫画『おかしなおかしなおかしなあの子』(64年/後に『さるとびエッちゃん』に改題)などが代表作だ。しかし、いまでは当たり前のような設定も、読者には難しいとの編集部の判断で『サイボーグ009』の連載は打ち切られ、他の作品も短期連載か短編作品に終わっている。日本のSFが揺籃期(ようらんき)にあった60年代ならではの話だ。
確かに石ノ森作品は、SFテーマを物語の重要な骨格として据えており、それまでのような小道具的に扱われるソフトな子ども向けSF漫画とは毛色が違った。また同時期の少女漫画の演出で進化させた、セリフに頼らず、情景を細かく描いて人物の心理を伝える実験的な情緒描写も、アクション演出の中に入り始めていた。
リアルな科学設定や心理を重視して描く海外SF小説からの影響も色濃く、たとえばフィリップ・ワイリーの人造超人SF『闘士』やアルフレッド・ベスターの宇宙復讐譚『虎よ、虎よ!』は、『サイボーグ009』や『仮面ライダー』のヒントになったようだ。
しかし各誌編集部が「SF漫画は難しい」と判断したのは早計で、新しさを求める10代の読者は熱心なフォロワーとなっていた。追い風となったのは映像作品だ。東映動画は66年夏休みに劇場用アニメ『サイボーグ009』の制作を決定する。終了した連載も『週刊少年マガジン』で再開され、大人気となっていく。
こうして熟成していった手法は子ども向けの枠に収まらず、さまざまなジャンルで結実する。68年に新創刊した青年誌『ビッグコミック』連載の時代劇『佐武と市捕物控』は、実験性と娯楽性を絶妙なバランスで配分し、石ノ森テイストを完成させていった。
そして70年には劇画的なストーリーや怪奇色の強いデザインが印象的な読み切り作品『スカルマン』を発表する。石ノ森は、60年代後半から70年代前半にかけ、週刊誌6誌、隔週誌、月刊誌連載、描き下ろし単行本合わせて500ページ以上の原稿を月産していた。石ノ森SF作品の爆発期は、この最中の話だ。
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幾多の構想を経て誕生した、『仮面ライダー』の設定と物語
1969年、大阪のテレビ局・毎日放送から、新番組企画の発注が東映にもたらされた。そこで生まれたのが「バイクに乗る仮面のヒーロー」というアイデアだった。最初に発想された検討用企画は、日本を経済侵略しようとする組織「ショッカー」と仮面ヒーロー「マスクマンK」の戦いを描く活劇だ。これが「仮面天使」「十字仮面(クロスファイヤー)」と進み、そして東映は「新しいヒーロー」を完成させるべく、ヒット作『サイボーグ009』の作者、石ノ森章太郎を原作者として迎えるのである。
石ノ森はまず「クロスファイヤー」のデザイン案を完成させる。しかしテレビ局からは好評だったが、「インパクトが弱い」と自ら却下。骸骨をモチーフにした新たなデザインを再提案するのだった。石ノ森にとっての新しいヒーロー像とは、一見すると反体制にも見える気味の悪い「異形の者」でなくてはならなかった。しかし今度はテレビ局が骸骨に難色を示し、デザイン選定は難航を極める。行きついたのがバッタというモチーフであった(アイデアソースは子ども向けの昆虫図鑑だったという)。
当初「仮面ライダーホッパーキング」と仮題されたヒーローは、数あるデザインの中から、当時5歳だった石ノ森の長男が選んだものであった。
ストーリーに関しては、主人公の悪の組織からの裏切り、超人としての悲壮感といったプロットを土台に、リアルな現代社会の世相を盛り込んでいった。
70年代初頭は、経済発展を遂げた日本社会の中で、深刻な公害が社会問題となっていた時代でもある。石ノ森が仮面ヒーローのイメージを子どもに身近なバッタと重ねたのは、ショッカーが象徴する歪んだ科学や非情な経済に対抗しうるのが、名もなき小さな存在であるとの思いがあったからかもしれない。仮面ライダーはいわば大自然の使徒なのである。現在でいえばSDGsに通じる社会テーマを据えたともいえるだろう。
当時、講談社は児童向けの『週刊ぼくらマガジン』を69年1月に創刊し、劇画が大ヒットしていた『週刊少年マガジン』の青年誌化を加速していた。『週刊ぼくらマガジン』でスタートした『仮面ライダー』は、雑誌廃刊に伴い、71年『週刊少年マガジン』に連載を移行したが、この転載がスムーズに行われたのは、いかに『仮面ライダー』が読者を子ども扱いしない骨太な作品だったかを物語っている。
こうした石ノ森のこだわりは、70年代中盤からの特撮番組を次々にヒットさせ、いまなお受け継がれるヒーローを生んでいくこととなった。
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