【Penが選んだ、今月の読むべき1冊】
『ドナウ、小さな水の旅 ベオグラード発』
セルビア(旧ユーゴスラビア)の首都ベオグラードに40年余り暮らしてきた詩人の山崎佳代子によるエッセイ。ヨーロッパ第二の大河、ドナウ川の支流をめぐるこの旅の案内人は、よどみなく流れる水であり研ぎ澄まされた言葉だ。行く先々でひも解かれるのは幾度となく戦火に巻き込まれたその土地の歴史であり、過酷な人生をくぐり抜けてきた市井の人々のいくつもの声だ。著者自身、内戦下の旧ユーゴスラビアにとどまり、詩を書き続けてきた。
帰国直前の東京で東日本大震災に遭遇した際に思い起こしたのも、NATOによるベオグラード空爆が始まった日のことだった。「あの日の人々もやはり静かで厳かだった。誰もが優しくなり、声をかけあい励ましあった」──自らの経験に裏打ちされたこんな実感が、この人の眼差しに宿っている。だからこそ出会った人々も胸の内に封印してきた苦い記憶を問わず語りに語り始め、歴史の点と点がつながるような瞬間が訪れるのだろう。
この旅でひも解かれる戦争は、為政者が声高に語るそれではない。美しい刺繍をしたクロスを引き裂いて、流れる血の手当てをした。あの袋の中には赤ん坊が入っていた。いつもおなかがすいていた。産まれ故郷も家も家族も失った。それでも生き抜いてきたのだ。チーズパイ、魚のスープ、からし菜で米を包んで煮込んだサルマ……。出てくる料理のおいしそうなこと!それは生きる力そのものだ。季節ごとに色を変える水の豊かさは、その土地の豊かさ、美しさだ。歴史と現在をつなぐ豊穣なタペストリーのような旅。2023年は「新しい戦前になるのでは」と、タモリが「徹子の部屋」に出演して語った言葉がやけに腑に落ちるような不穏ないま、深い思索に身を委ねるようなこの旅の同伴者となってほしい。
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※この記事はPen 2023年4号より再編集した記事です。
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