いまでも多くの謎に包まれている「本能寺の変」。歴史好きの間ではよく話題に挙がる出来事のひとつだ。画策した明智光秀の動機や共犯者の存在など、この事件をめぐる諸説について最新研究をもとに検証したい。
明智光秀はなぜ「本能寺の変」を起こしたのか? 「関ヶ原の戦い」で真の裏切り者は誰だったのか? Pen最新号「戦国武将のすべて」では、近年の研究によって明らかになった戦国武将たちの知られざる姿を解き明かしつつ、映画『レジェンド&バタフライ』、NHK大河ドラマ『どうする家康』など、話題作の魅力をひも解く。さらに戦国時代を舞台にした人気漫画・ゲームなどの制作秘話に加え、軍師の働きや名城の見どころ、天下分け目の合戦模様や大名の組織運営まで、あらゆる角度から戦国武将たちの姿に迫る。
Pen最新号「戦国武将のすべて」
【特装版】Amazonでの購入はこちら
光秀が実行した動機はやはり怨恨説が有力?
光秀の動機に、信長に対する恨みがあったという説の根拠には以下の5つが挙げられる。
まず、信長のせいで母を殺されたこと。次に、家康饗応役を務めた際、魚が腐っているとしてその役を罷免されたこと。続いて、家臣の移籍問題に起因する信長からの暴行。さらに、戦での「骨を折った甲斐があった」との発言に対する叱責。そして、石見への国替え命令である。
だが、殴打と人事への不満を除けば、他はすべて江戸時代の創作と判明している。
その他に、長宗我部元親が原因とする説も軽視できない。信長が元親との「四国切り取り自由」の約束を撤回したことで、両者の関係は悪化。そこで仲介役を務めていた光秀は面目を失い、謀反を起こしたとする説だ。
---fadeinPager---
自害後の信長の遺体は見つからなかった?
本能寺の変の直後、羽柴秀吉は、信長存命と嘘を伝えて兵たちを安心させた。少なくとも晒し首にはされていないため、この時点では生存説がかなりの真実味をもって受け取られた。
しかしその後、信長が姿を現すことはなく、遺体なしで葬儀が行われたが、実は信長の遺体は密かに本能寺から持ち去られ、首は遠く駿河の西山本門寺に葬られたとする伝承がある。
西山本門寺と京都の阿弥陀寺は同じ宗派。阿弥陀寺の高僧は信長と交流があり、本能寺が襲撃されたと知るやただちに人を走らせ、信長の遺体を託させた。とりあえず阿弥陀寺へ運び、万が一に備えるため首だけは参道伝いに駿河の西山本門寺へ。丁重に葬ったという。本門寺の過去帳などから、状況証拠は十分な説である。
---fadeinPager---
実は共犯者や黒幕が存在していた?
本能寺の変は明智光秀の単独犯行か、それとも共犯者か黒幕がいたのか。長らく議論の的となってきた問題で、もし共犯者か黒幕がいたなら、それはいったい誰なのか。歴史愛好家たちが推理してやまない点である。
共犯者・黒幕の候補者は朝廷、毛利勢力圏内の備後国鞆にいた足利義昭、羽柴秀吉、徳川家康、長宗我部元親、上杉景勝の面々に絞られる。景勝のもとへは本能寺の変より早く、光秀からの密書が届いていた。元親は信長の四国政策変更のいちばんの被害者で、仲介役を任されていた光秀は罪の意識を感じていたはず。家康は対等の同盟が従属関係になっていたことが面白くなく、秀吉は抜け目なく腹の内がよく見えない。
それぞれに動機と疑わしい点を備えてはいるが、どれもが証拠に欠ける。なかでも景勝は呼応を呼びかけられただけで、それ以前に密約を交わしていた様子はない。元親にしても呼応した様子が皆無なことから、これも候補から除外できる。秀吉と家康が候補入りしているのは、のちに天下統一を成した人物だからで、このふたりを疑惑の対象とするのは、後付けにすぎる。
そうなれば、残るは朝廷と義昭。朝廷黒幕説は信長と天皇との間に極度な緊張関係があったことを大前提とするが、現在ではそれも否定され、朝廷黒幕説も成り立たず。結局、最も有力なのは義昭だが、毛利陣営に対する事前の働きが弱く、仮に黒幕であったとしても、光秀との間で詳細を詰めていなかった可能性が高い。共犯者・黒幕説は未だ謎のままだ。
「戦国武将のすべて」
2023年2月号増刊 No.537 ¥1,100(税込)