戦国一の「軍師」は誰だ? 秀でた策略で主君を支えた、頭脳派武将5選

  • 文:藤村はるな 
  • イラスト:黒木仁史 
  • 監修:渡邊大門
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織田信長や武田信玄、徳川家康といった歴史に名を残す大名の裏に、名家臣の存在あり。優れた知略や武力で戦国大名を支えた家臣の中から、戦術や策略を駆使して君主を成功へと導いた当代きっての「軍師」を5人紹介しよう。

明智光秀はなぜ「本能寺の変」を起こしたのか? 「関ヶ原の戦い」で真の裏切り者は誰だったのか? 戦国時代には多くの謎が残され、そんな歴史の悪戯が人々の興味関心を惹きつけることで、それらを題材としたエンターテインメント作品も数多く生まれてきた。一方で、近年の研究でわかった事実もたくさんある。上杉謙信の度重なる北条攻めには意図があったこと、“悪人”の汚名を着せられた松永久秀は冤罪の可能性があったこと……。現在発売中のPen最新号「戦国武将のすべて」では、あらゆる角度から戦国武将の実像に迫る!

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黒田孝高(くろだよしたか)、黒田官兵衛/1546~1604年

秀吉も脅威を感じた、当代きっての戦略家

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戦国時代の軍師といえば真っ先に名が浮かぶのは黒田孝高だろう。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という戦国時代の三英傑に重用され、後に黒田家が筑前国福岡藩(現・福岡県)の基盤をつくった。秀吉の配下として戦場に立った「鳥取城の戦い」では、食料の補給を絶つ「兵糧攻め」、「備中高松城の戦い」では城を水に沈める「水攻め」を取り入れるなど、的確な戦法を数々提案した。

しかし、功績を上げたにもかかわらず、秀吉による天下統一後、孝高は中央集権にも登用されず、領地も12万石しか与えられなかった。理由について周囲の人間が秀吉に聞いたところ、「あいつに権力や領地を与えたら、いずれ天下を取ってしまうだろう」と答えたという逸話もある。

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太原雪斎(たいげんせっさい)、太原崇孚/1496~1555年

今川家の繁栄を支えた、黒衣の宰相

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「海道一の弓取り」の異名をもち、駿河と遠江の大名であった今川義元。その義元を支え、今川家のブレーンとして活躍したのが太原雪斎だ。臨済宗の僧侶であった雪斎は、才を買われて義元の教育係となる。義元の家督相続に尽力するなど、のちの今川家の政治に強い影響力をもち、「黒衣の宰相」と恐れられた。

功績として特に知られるのが甲相駿三国同盟。上杉や織田、徳川などの大名が力を増す中、彼らから領土を守るため、当時、関東で力を握っていた相模国の北条氏と甲斐国の武田氏に今川氏と同盟を組むことを提案し、内乱を避けようと画策した。そんな雪斎の死後、ブレーンを失った義元は、兵力差が大幅に劣る新興大名・織田信長に桶狭間の合戦で大敗し死亡。その後、今川家は衰退の一途をたどった。

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竹中重治(たけなかしげはる)、竹中半兵衛/1544~1579年

信長からも請われた、別名「今孔明」

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秀吉の参謀として黒田孝高(官兵衛)とともに采配を振るい、「両兵衛」と呼ばれた智将・竹中重治。美濃で斎藤道三の家臣の子として生まれた重治は、10代から才気煥発な子どもだったという。

その名が広く知られる契機となったのが「稲葉山城奪取事件」。主君である斎藤龍興(たつおき)が政治を疎かにしていたことに反発し、龍興の居城である稲葉山城を奪うクーデターを実行。半年後には龍興に城を返却し、その行動を戒めた。

のちに龍興が織田信長に追われると、「稲葉山城奪取事件」の噂を聞きつけた信長に請われ、秀吉の配下として仕官。「姉川の戦い」や中国征伐など、多数の戦に参加して知略を用いたことから、後世では『三国志』の軍師・諸葛孔明になぞらえて「今孔明」とも呼ばれた。

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山本勘助(やまもとかんすけ)/1501~1561年

「川中島の戦い」における、名戦術の考案者

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武田信玄に仕える軍略家であり、武田五名臣のひとりともされる山本勘助。三河の国に生まれた後、諸国を旅してはその地の実力者に仕官。信玄に出会ってからは、武田家に終生仕えたという。

「第2次川中島の戦い」で、武田軍は初めて鉄砲を用いて上杉謙信の軍を撃退。この時に用いられた鉄砲は勘助が諸国流浪の際に培った人脈や情報力を活かして入手したものとの説もある。また、軍隊を二手に分け、一方が相手を挑発して敵が気を取られている間に、もう一方の軍隊が相手を襲撃するという「キツツキ戦法」の発案者としても有名だ。これまでその出自や功績は謎に包まれていたが、近年、信玄が勘助に宛てた手紙などが見つかり、実像が徐々に解明されつつある。

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大谷吉継(おおたによしつぐ)/1558~1600年

関ヶ原の大敗を予見しながら、義理を尽くした名将

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豊臣秀吉に仕え、白頭巾の軍略家として知られた大谷吉継。その軍才ゆえに、秀吉も「あいつに100万の兵を与えて自由に指揮をさせてみたい」とつぶやいたとか。「賤ヶ岳の戦い」や九州征伐などで功績を上げるも、30歳前後にハンセン病を患い失明。トレードマークの頭巾は、病に侵された顔を隠すためだといわれる。

戦局を冷静に読む能力に長けていた吉継は、関ヶ原の合戦前に、友であった石田三成から徳川家康の討伐計画を打ち明けられるも、冷静に戦力差を察して計画に大反対した。しかし、三成の想いに心を打たれた末、死を決意して西軍に味方したという逸話がある。三成に代わって、諸大名を西軍に取り込んだり、偽情報を流布して敵の動きを封じたりなどして貢献した。

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