12月28日発売のPen最新号「戦国武将のすべて」では、戦国武将たちの知られざる姿を解き明かしつつ、映画『THE LEGEND & BUTTERFLY』、大河ドラマ『どうする家康』など、話題の大作の魅力をひも解く。さらに戦国時代を舞台にした人気漫画・ゲームなどの裏側や制作秘話に加え、軍師の働きや名城の見どころ、天下分け目の合戦模様や大名の組織運営まで、あらゆる角度から戦国武将たちの姿に迫る。
Pen最新号「戦国武将のすべて」
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その名が広く通っている戦国大名たちであっても、近年の調査や資料の発見で、知られざる姿や人間像が明らかにされている。
今回は戦国最強と評される軍神、上杉謙信を紹介する。義に厚く、自身の職務のために数々の戦で名を挙げた人物だが、そんな上杉にも狡猾な一面があったという。
15歳で初陣を飾り、49歳で亡くなるまで、大きな戦いだけで70余回も経験した上杉謙信。その勝率はなんと9割5分以上ともいわれ、戦国最強の呼び声が高い。
実父、長尾為景の代に下克上で越後の実質上の国主となり、永禄4年(1561年)には、居城の上野国・平井城を失って助けを求めてきた上杉憲政を鎌倉へ生還させるのと引き換えに、鎌倉府の長官補佐である関東管領の職と上杉の名跡を譲り受けた。
70余回の戦いには、武田信玄との5回におよぶ「川中島の戦い」や13回にも達する関東への遠征も含まれ、そのうち8回は関東で越年。1回は北条氏の本拠地である小田原城を包囲している。
謙信にとって、相模・北条氏と甲斐・武田氏はどちらも終生のライバル。この二雄に敗れた武将の多くが越後を訪れ、奪われた土地の奪還を謙信に懇願した。関東管領の肩書を引き継いだ謙信は職務を果たそうと奮い立ち、かくして北条氏を相手とする関東への遠征と、北信濃の川中島を舞台とする武田氏との戦が繰り返された。
謙信は戦場で、一度として敵に背中を向けたことがない。川中島の戦いは一度の例外を除いて局所的な小競り合いに終始したが、その例外というのが、永禄4年9月10日の第4次川中島の戦いだ。
武田軍の仕掛けた「キツツキ戦法」の裏をかき、信玄の本陣前に現れた謙信は「車懸りの陣」で戦いを挑む。乱戦に突入する中、信玄との一騎打ちが実現というのは後世の創作なのだが、謙信ならそんな無茶をやってもなんら不思議ではない。旗印に鮮明な「毘」の文字を記したのも伊達ではなく、そう思わせるだけのカリスマ性が謙信には存在したのだ。関東への遠征でも敗け知らずだったが、所領化した土地は皆無だった。あくまで職務を遂行するだけという姿勢を貫いたからだ。義に厚いといわれる所以である。
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ただし、謙信の行動原理が100%大義で占められていたのかというと、関東への遠征内容については疑問符が付く。
8回の遠征のうち7回までが、秋の終わりに開始されている。秋の終わりは稲の収穫時期だ。収穫に必要なため、本来なら兵の動員を避けるべき季節である。調べてみると、謙信の関東遠征は越後が飢饉に見舞われた年と見事なまでに重なる。それに対して関東の出来高は豊作か例年並み。なんのことはない。食糧がないなら、あるところから奪えばよいとの考えが働いていたわけで、大義だけだと腰の重い将兵も家族を餓死から救うためとあれば目の色が変わる。北条氏は形勢不利と見ればすぐさま籠城を常套手段としたので、上杉軍は小田原城を囲みながら余裕綽々と稲刈りと略奪を働くことができたのではないか。
「戦国武将のすべて」
2023年2月号増刊 No.537 ¥1,100(税込)