12月28日発売のPen最新号「戦国武将のすべて」では、戦国武将たちの知られざる姿を解き明かしつつ、映画『THE LEGEND & BUTTERFLY』、大河ドラマ『どうする家康』など、話題の大作の魅力をひも解く。さらに戦国時代を舞台にした人気漫画・ゲームなどの裏側や制作秘話に加え、軍師の働きや名城の見どころ、天下分け目の合戦模様や大名の組織運営まで、あらゆる角度から戦国武将たちの姿に迫る。
本記事では、その中から徳川家康の記事を抜粋・再編集して掲載する。
Pen最新号「戦国武将のすべて」
【通常版】Amazonでの購入はこちら
【特装版】Amazonでの購入はこちら
「関ヶ原の戦い」からの印象が強い徳川家康だが、それまでに家康はどのような動きをしていたのか。そこには、ひたすら好機を待ち続けた姿があった。
機が熟すまで忍耐と静観を重ね、歴史の表舞台へ
家康は、三河岡崎城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の嫡男として誕生。幼名は竹千代(たけちよ)。母は刈屋城主・水野忠政(みずのただまさ)の娘。駿河の今川氏の庇護下にあった関係上、幼年期は人質と英才教育の意味を兼ねて駿府で過ごした。元服も、武家の男子として大事な節目の初陣も、今川氏のもとで経験。元服時に今川義元から一字を与えられ、元信(もとのぶ)に。初陣前に今川一門の娘である築山殿(つきやまどの)を正室に迎え、名を元康(もとやす)と改めた。
義元の尾張侵攻戦の序盤で、大高城への兵糧入れを果たして名を馳せ、その後も先鋒を任されるが、桶狭間で義元が討たれたと聞いて岡崎に戻る。義元の嫡男・氏真(うじざね)に仇討ちの意志なしと見るや、永禄4年(1561年)4月には今川氏と決別。永禄6年(1563年)には織田信長と同盟を結び、絆を深めるべく、嫡男の信康(のぶやす)と信長の娘との婚約を成立させた。
名も家康と改め、今川色を完全に払拭するが、同年9月に「三河一向一揆」が勃発。家臣団を二分する宗教戦争である。苦戦を重ねながらも、永禄7年(1564年)2月には一揆を鎮圧。西三河に続いて東三河の平定も成し遂げ、さらに遠江(とおとうみ)への侵攻も開始する。姓を徳川に改め、清和源氏(せいわげんじ)の子孫と称したのは永禄9年(1566年)のことで、遠江の平定が進むに伴い、信長の勧めで居城を引馬城(ひくまじょう)に移し、城の名も浜松城と改める。それまで甲斐武田氏とは、氏真を共通の敵とする点で一致していたが、今川領がみるみる削られ、両者が境を接するようになると対立が生じた。さらに足利義昭から信長打倒の呼びかけがなされ、信長の同盟者である家康も討伐の対象とされたことも重なり、呼びかけに応じた武田信玄と家康の衝突は避けがたいものに。
---fadeinPager---
元亀3年(1572年)、「西上作戦」を開始した信玄は家康など眼中にないかのごとく、浜松城を攻めずにそのまま西進。普段は慎重な家康がこの時ばかりは冷静さを失い、背後から武田軍を討とうと出撃するが、それこそ信玄の罠で、家康は返り討ちに合う。信玄の急死によりことなきを得たが、家康はこの敗北を胆に銘じ、上杉謙信と連携し南北呼応することで合意する。一方で、同盟関係にある信長は東国へ派兵する余裕がなかなか生まれず、家康にとってはその効果を享受できずにいた。
天正3年(1575年)5月、とうとうその機会が訪れた。決戦の場は長篠城の西に広がる設した楽原(したらがはら)。「長篠の戦い」である。織田・徳川連合軍は兵の数が上回るだけでなく、鉄砲の練度と銃弾の数でも大きく勝る。戦ってみれば連合軍の圧勝。家康は雪辱を果たす。これで一気に武田が衰退したわけではないが、武田軍に対する恐怖が消えただけでも十分。家中には武田に通じていた者が少なからずいて、それが信長の耳に届いたことから、天正7年(1579年)には嫡男の信康を自刃させ、正室の築山殿を殺害する事態となる。天正9年(1581年)3月、家康は高天神城(たかてんじんじょう)の奪還に成功するが、これは大局の流れを決定づける勝利だった。翌年には甲斐本国への侵攻を開始。武田氏側は寝返りが続出し、あっけなく滅び去る。
信長の招聘で安土へ赴き、その足で京都や堺も訪れるが、そこへ「本能寺の変」の知らせが届く。家康は三河へ逃げ戻り、しばらくはそこから動かず、事態の成り行きを静観。後継者争いの最終局面で介入し、「小牧・長久手の戦い」で秀吉に対し、自分の実力を見せつけた。秀吉には家康を討つ考えはなく、北条氏を滅ぼした後、家康は三河など5カ国を没収された代わりに、関東8カ国を与えられた。秀吉存命中の家康はまさに「忍」の一字。朝鮮出兵は言葉巧みに派兵を回避し、肥前名護屋城で後方支援をしただけ。
病の床に就いた秀吉から誓紙を求められれば何枚でも署名血判を繰り返し、秀吉が永眠するのを待って、豊臣恩顧の大名の切り崩しや外様大名の懐柔工作を推し進めた。「関ヶ原の戦い」に勝利して征夷大将軍に就任、江戸幕府を開くと、嫡男の秀忠(ひでただ)に将軍職を継承させることで豊臣家への政権返還がないことを世に示す。「大坂の陣」をもって豊臣家を滅亡させ、戦国の世を終わらせた。
---fadeinPager---
家康の勢力図の変遷
1580年代前半
1580年代後半
1590年代後半
---fadeinPager---
天下統一を果たした、4つの要因を解説
1.戦国大名の中でも頭ひとつ抜けた長寿
戦国大名の享年を見ると、豊臣秀吉が62歳、武田信玄が53歳、上杉謙信が49歳、三好長慶(みよしながよし)が43歳で、伊達政宗(だてまさむね)の70歳と家康の75歳が頭ひとつ抜けた長寿であったことがはっきりわかる。不慮の死を遂げることもなければ、命にかかわる大病も免れた。だからこその健康長寿で、家康にいたっては長生きしたからこそ天下を取れた。そう断言してもよいほどである。
いつの頃からか、家康は体調管理に人一倍気を遣い、それなりの権力を握ってからも、贅沢は1カ月に2度か3度で十分として、普段は麦飯と味噌中心の一汁一菜か一汁二菜を基本とした。粗食ながら鶏肉を好んだというから、栄養面も問題なし。鷹狩りに加え、剣術、弓、水練、乗馬など武士の嗜みを晩年まで欠かさず、屋内では香木を焚いて気持ちを落ち着かせた。極めつきは、自身で薬を調合していた点で、最も愛飲したのは「八味丸(はちみがん)」。「八味地黄丸(はちみちおうがん)」の名で知られるそれは、地黄(じおう)を中心とする8つの生薬からなり、現在でも腎機能の改善に使用される。家康はそこにオットセイのペニスと睾丸を加えた漢方を飲んでいたとされ、滋養強壮に有効と考えられていた。その効果か、60歳を過ぎても側室たちに計3人の子を産ませている。
2.信頼を得るべく、まめに送った手紙
通信手段の限られる当時、相手に自分の意志を伝える手段は対面か手紙のどちらかに限られた。直接会って語り合うのがいちばんだが、頻繁に会見を重ねては周囲の疑惑を招き、遠方にいる者であれば、そもそも顔合わせが叶わない。信頼の置ける者に伝言を託すこともできるが、相手がその者を信頼するとも限らない。そうなると、やはり手紙という手段を選ぶ。自身の署名と花か 押おうがあれば、相手の信頼を得られる。後日の証拠にもなるから、手紙を送るという行為自体が、信頼の表れでもあった。
もとより筆まめな家康であるが、秀吉の逝去から「関ヶ原の戦い」に勝利するまでは特に手紙の量が増えた。最近発見されたものとしては、会津攻め準備中の慶長5年(1600年)5月、越後国主の堀秀治(ほりひではる)に送った書状が挙げられる。「そちらの報告は心得た」とあることから、上杉景かげ勝かつの動向について報告してきた秀治に感謝の意を伝えた返書と考えられる。会津攻めとの関連で、同年8月には伊達政宗との手紙のやり取りが増え、同月7日には西へ軍を返すため5日に江戸城に帰ったことを伝え、同月22日には、「百万石のお墨付き」として知られる内容の書状も送っている。景勝が関東へ出てくれば、すべてが水の泡になる。それを防ぐためにも、政宗には景勝を背後から脅かしてもらわねばならない。50万石近い加増を認めるなど、いかに家康が必死になっていたかがその書状からわかる。
3.家臣を鼓舞した対・一向一揆の大胆な文言
永禄6年(1563年)9月、三河一向一揆の勃発で徳川家臣団は二分された。家康が経験した最初の重大危機でもある。家康の用いた旗には、「厭離穢土欣求浄土(えんりえどごんぐじょうど)」の文字が記されたものもあるが、一説によると、これは一向一揆への対策として考案されたという。
考案者は三河国の大樹寺の住職を務める登誉天室(とうよてんしつ)で、一向一揆側が鎧に「進是極楽退是無間地獄(前進するなら極楽往生、退けば無間地獄に落ちる)」と記したと聞いて、その呪文に打ち勝つものとして提案したという。「穢れた現実の世を離れ、次は清浄な仏国土に生まれることを願い求める」といった内容である。
これにより家康支持の家臣たちは奮い立ち、永禄7年(1564年)2月には一揆を平定。生き残った一揆の指導者たちは甲斐国へと落ち延びた。武田信玄の継室・三条の方は左大臣三条公頼(きんより)の次女。三女は本願寺11世顕如(けんにょ)の妻であったから、信玄と顕如は義理の兄弟の間柄。互いに相手を利用できる立場にあり、三河からの亡命者は信玄にとって大事な駒のひとつ。それを理解しているだけに、家康は一向宗が再び武装蜂起を起こせぬよう、抑え込みを徹底した。
4.家臣との信頼を築き、豊臣恩顧の外様も登用
譜代の家臣をもたなかった豊臣秀吉とは対照的に、家康は三河家臣団という強固な絆を有していた。家臣団が二分された三河一向一揆の際も、家康を目にしたら逃げる者が多く、一揆の平定後は、石川数かず正まさを唯一の例外として、譜代の家臣の結束がゆらぐことはなかった。家臣に裏切られた織田信長との大きな違いである。
家康は江戸幕府が創設されるまで松平一門を重用せず、三河譜代のなかでは石川氏、加藤氏、天野氏、酒井氏、渡辺氏の存在が抜きん出ており、三河一国の統一を成し遂げた際、家康は酒井忠次を東の旗頭、石川数正を西の旗頭として、それぞれの松平一門と国衆を統率させた。
遠江・駿河の国では井伊直政の抜擢が目立ち、新参の若輩でありながら、関東入国時には上野国箕輪に12万石と、譜代の中で最高の石高に位置づけられた。石高は低くとも、鳥とり居い 元もと忠ただをはじめ、討死必至の役目を恨み言ひとつなく引き受けてくれる家臣たちにも恵まれ、家康は多様な戦術を選択することができた。
しかし、天下を狙うには外様大名の取り込みも必要で、伊達政宗や京きょう極ごく高たか次つぐと姻戚関係を結び、黒田長政(官兵衛)や加藤清正、福島正則など豊臣恩顧の大名の取り込みにも力を入れた。
「戦国武将のすべて」
2023年2月号増刊 No.537 ¥1,100(税込)