世界約200カ国のなかで「王室」がある国は30に満たないが、「王室」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは英国王室ではないだろうか。イギリス国民から圧倒的な支持を受け、その動向はすぐにニュースとなる。いまや英国王室御用達=ロイヤルワラントは完全にブランドのようになっている。今回は、そんな英国王室から愛された名品を取り上げる。
英国王室の名品① エリザベス女王が着たバブアーのアウター
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2022年9月、英王室から発せられた衝撃的なニュースが世界を駆け巡った。イギリスの君主として歴代最長、70年にわたって在位してきたエリザベス女王が9月8日に静養先のスコットランド・バルモラル城で亡くなったのだ。96歳、愛する家族たちに囲まれて穏やかに天に召されたと報道されている。国葬が行われたのは同19日。女王の棺は、安置されていたウェストミンスター・ホールから海軍の砲車に乗せられてウェストミンスター寺院に運ばれた。葬儀は遺族に加えて、イギリス政界幹部や首相経験者、世界各国の元首や政府首脳らが出席。日本からも天皇皇后両陛下が参列した。その様子は日本にも同時中継されたが、1000年の歴史を持つ英国王室らしい荘厳で美しく、見事な葬送だった。
エリザベス女王。正式には女王エリザベス2世。1926年4月21日、ヨーク公アルバート王子とエリザベス妃の第1子・長女として誕生する。叔父のエドワード8世の退位にともない、父がジョージ6世として英国王に即位すると、エリザベス王女は王位継承順位第1位となった。1952年、ジョージ6世崩御で25歳という若さで王位についた。もちろんイギリスだけでなく、カナダ、オーストラリアなど、英連邦各国の元首でもある。イギリスでは国家元首として議会の開会式を行い、首相を任命、彼女の署名なくして議会制定法は成立しない。この名品図鑑にも登場したウィンストン・チャーチルからリズ・トラスまで実に14人もの首相たちが女王のもとで任命されている。奇しくもバルモラル城でトラスを首相に任命した2日後に女王は亡くなっている。ついでながら女王から最後の任命を受けたトラスはすでに辞任。『エリザベス女王』(中公新書)を著した君塚直隆は「この国で政治的な経験を長く保てる唯一の政治家」と女王を評する。
女王が崩御されたニュースが流れると、ロンドンのバッキンガム宮殿やウェストミンスターホールには多くの市民が詰めかけた。
女王ほど国民から愛された君主はいない。21歳の誕生日に「私は、全生涯をイギリス連邦に捧げます」と女王は宣言しているが、女王の存在そのものがイギリスのようなものであり、ある意味国民の心のよりどころ。だから女王の一挙手一等足がニュースとして流れる。
それはファッションについても同じだ。中野香織は著書『ロイヤルスタイル 英国王室ファッション史』(吉川弘文館)のなかで、女王はいつも「コートドレスを基本とした原色のセットアップ、揃いの色の帽子。そしてバッグ(ブランドはローナー)と靴はほぼ必ず黒、たまに白」と書く。コートドレスのシルエットは常に変わらず、ありとあらゆる色を着こなすという「ワンスタイル、マルチシェード(スタイルはひとつ、色は多色)」の着こなしに特徴があると解説する。
その真意は何か。中野はこういった彼女のスタイルは「遠くからでも『あそこに女王がいる!』とわかるように、という女王の考えを反映したスタイルである」と書く。崩御のニュースのなかで「英国国民の3人に1人が女王に会った経験がある」との報道があったが、国民との距離がそれほど近い女王のスタイルにも、国民に寄り添う姿勢が感じられるのではないだろうか。
【続きはこちらから】エリザベス女王がカントリーウェアとして愛用した、英国を代表するバブアーのアウター
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英国王室の名品② チャールズ国王が着たギーヴス&ホークスのスーツ
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エリザベス女王の逝去にともなってイギリスの王位を継承したのがチャールズ新国王だ。正式には国王チャールズ3世。国王になるまではチャールズ皇太子と呼ばれていたが、全名は「チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ」という長い名前。国王になるときにはどの名前を選ぶのかと注目されたが、国民が長く慣れ親しんだ「チャールズ」を選んだのではないかとも言われている。
チャールズ国王が生まれたのは1948年11月14日。エリザベス女王とエディンバラ公フィリップの第1子・長男として生まれた。将来のイギリス国王になるべく、父から厳しい教育を受けていた。そうした経緯もあり、わざと中産階級の児童が多い学校に通うことになったが、その学校には同じ階級の生徒が少なく、皇太子という身分でありながら、いじめやからかいを受けていたという。ケンブリッジ大学に進学後、イギリス王室の習慣に則り、イギリス海軍と空軍に入隊。ジェット輸送機や駆逐艦にも乗るなどの軍歴をもっている。一時「世界で最も素敵な独身男性」として注目を集めるが、セント・ポール大聖堂でスペンサー伯爵の三女ダイアナと結構したのが、1981年。ハイドパークには1万を超える花火が上がり、イギリスがこれだけ熱狂したのはエリザベス女王の戴冠式以来と言われる。
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英国王室の名品③ キャサリン皇太子妃が履いたヴェジャのスニーカー
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2022年9月にチャールズ皇太子が国王チャールズ3世となった。そしてチャールズ皇太子の長男であるウィリアム王子は、父が64年間務めた皇太子(プリンス・オブ・ウェールズ)を継承し、ウェールズ公ウィリアム王太子となった(日本では皇太子と呼ばれることも多い)。またウィリアム王子の妻キャサリン妃は王太子妃(プリンセス・オブ・ウェールズ)と、新しい称号を持つことになった。ウィリアム王太子の弟であるヘンリー王子が王室から離脱している現在、ウィリアム王太子とキャサリン王太子妃、その家族が、次代の英国王室を担うことになるのだろう。
ウィリアム王太子。誕生は1982年6月21日。チャールズ国王(当時はチャールズ皇太子)とダイアナ妃の第1子・長男として生まれる。ロンドンで幼少期を過ごしたあと、バークシャーにある小学校に通っているが、大学はスコットランドにあるセント・アンドルーズ大学に進学し、美術史や地理学を学んだ。王室の伝統に従い、2006年からはイギリス軍に入隊、サンドハースト王立陸軍士官学校を経て、海軍兵学校と空軍士官学校でも教育を受けた。2009年には陸海空軍の大尉に昇進している。2011年4月には学生時代に知り合ったキャサリン・ミドルトンと結婚。ロンドンのウェストミンスター寺院で行われた結婚式は日本でも関心を集め、英国王室の威光と貫禄を全世界に示すものとなった。
またキャサリン王太子妃は、1982年1月9日にバークシャーで生まれる。高校までバークシャーで育ち、その後マールボロ・カレッジを卒業。セント・アンドルーズ大学へ進み、そこで王太子と知り合った。学校で開かれたファッションショーにモデルとして出演していたところを、王太子が一目惚れしたという話もある。結婚後は、ジョージ王子、シャーロット王女、ルイ王子を授かり、家族で幸せに過ごす様子がメディアで報道されている。ちなみに彼女はイギリス王室初の“大卒”かつ“民間出身”の王太子妃だ。
【続きはこちらから】ウィリアム皇太子とキャサリン皇太子妃の、ファッションスタイルの違いとは?
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英国王室の名品④ 元皇太子妃ダイアナが履いたトッズのシューズ
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2022年はダイアナ元妃が亡くなって25年という節目の年である。ドキュメンタリー映画『プリンセス・ダイアナ』や、女優クリステン・スチュアートがダイアナ妃を演じた『スペンサー・ダイアナの決意』が公開され、悲劇的な最後を迎えた元妃の記憶が甦ったという人も多いだろう。
ダイアナ元妃は、イギリスの名門貴族スペンサー伯爵の三女として1961年7月1日に生まれる。父方の先祖と母親の名前をとって「ダイアナ・フランセス」と名付けられた。チャールズ皇太子(現在の国王チャールズ3世)と交際が始まったのは1979年のパーティでと言われている。その前から2人は知り合いだったが、パーティ以降ダイアナ元妃は皇太子から招待を受けるようになり、1981年、ウィンザー城で皇太子から求婚され、そのプロポーズを元妃は受け入れたと言われている。
1981年7月29日、2人はセント・ポール大聖堂で結婚式をあげる。『ロイヤルスタイル 英国王室ファッション史』(中野香織著 吉川弘文館)には「海軍司令官の正装もりりしいチャールズ皇太子と、プリンセス・オブ・ウェールズとなったばかりのダイアナ妃が、赤い絨毯が敷き詰められた階段をのぼっていく。階段を覆いつくさんばかりの八メートル近いヴェールは、ロイヤルウェディング史上、最長である」と書かれている。全世界の人々の視線を釘付けにし、ダイアナ元妃が最高の幸福を得た瞬間だったに違いない。しかし幸福は長くは続かなかった。元妃は王室のしきたりだらけの生活に馴染めず、摂食障害などの病気まで発症、ウィリアム、ヘンリーの2人の王子を授かってはいるが、皇太子との関係も徐々に冷えていった。そして1992年に別居、4年後の1996年、ついに離婚が成立する。
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英国王室の名品⑤ ウィンザー公が着たニット
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メンズファッションの歴史を語るとき、欠かすことのできないイギリス人が「ウィンザー公」、または「ウィンザー公爵」ではないだろうか。
世界屈指の洒落者として知られ、メンズファッションに多大な影響を及ぼし続けた人物。実はこの名前は退位後に叙されたもので、彼はれっきとした英国国王。ウィンザー朝第2代国王のエドワード8世で、女王エリザベス2世の叔父にあたる人だ。
そんな彼は1894年6月23日、ジョージ王子(後のジョージ5世)とメアリー妃の第1子・長男として生まれる。当時の上流階級のしきたりにのっとり、両親ではなく乳母に育てられる。その後海軍兵学校に進学するが、学力も体力も芳しいものではなく、いじめに近い扱いを受け、寮生活にも馴染むこともできなかった。1910年、エドワード7世の死去にともない、16歳で「プリンス・オブ・ウェールズ」に叙される。1912年にはオックスフォード大学に入学するも、学問よりも乗馬やゴルフ、狩猟などにいそしむ学生生活を送っていたという。第一次世界大戦後の1919年、彼は親善大使として軍艦レナウン号に乗って積極的に各国を訪問する。『恋か王冠か』(渡辺みどり著 光人社)には「ニューヨークでは、皇太子は耳をつんざくような歓迎の嵐に迎えられ、ブロードウェイではテープの吹雪が皇太子に浴びせられた」と書かれている。アメリカは「王位」をもたない国、その地位への憧れもあるのだろうが、「プリンス・チャーミング」と言われた英国皇太子のはにかんだような笑顔と洗練されたスタイルは、アメリカだけでなく世界中の人たちを魅了した。
1936年1月20日、ジョージ5世が他界すると彼は国王に即位し、エドワード8世となる。当時交際中だったアメリカ人女性、ウォリス・シンプソンとの結婚を彼は望んだが、ウォリスに離婚歴があったため、英国国教会はこれを認めなかった。このため、同年の12月に退位を決意する。
「私が次に述べることを信じてほしい。愛する女性の助けと支えなしには、自分が望むように重責を担い、国王としての義務を果たすことができないということを」とラジオ放送を通じて国民に語りかけた。市内の電話回線はパンク、市内は大混乱、第一次世界大戦の宣戦布告をも上回る衝撃が世界中を駆け巡った。まさに「王冠をかけた恋」である。1年に満たすことなく、退位し、ウィンザー公となった彼はイギリスを去り、ウォリスとの結婚は果たすが、ドイツ、フランスなど各地を転々とする日々を送り、1972年、食道ガンで亡くなっている。
【続きはこちらから】「ルール破り」を厭わない。イギリス王室一のファッショニスタ、ウィンザー公が流行させたセーター
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英国王室の名品⑥ 「英国王室御用達」とは?
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イギリス生まれの「名品」を探っていくと、必ず遭遇するのが「王室御用達=ロイヤルワラント」という称号だ。これはイギリス固有のものではなく、オーストリア、デンマーク、ベルギー、オランダなどの王室も称号を授けているが、なかでも知名度が高いのがイギリスではないか。
『英国王室御用達 知られざるロイヤルワラントの世界』(長谷川喜美著 平凡社新書)によれば、「英国ロイヤルワラント」とは、英国王室による認定証明書を指す言葉だという。「英国メンバーより無償で提供されるが、その売買は固く禁じられている」とも書かれている。諸説あるが、イギリスでロイヤルワラントをもつ企業(個人も含まれる)は約600もあるという。
さらに同書には「ロイヤルワラントを授与されるのは純粋に商業、あるいはそれに関わるサービスに限定され、銀行などの金融機関、政府機関やメディア、エンターテイメントや休息のための商業施設は認定されることはない」とも書かれている。つまりホテルやレストランなどが認定されることはない。
認定を受けるためにまず申請が必要だが、申請のためには条件があって、いずれかの王室に一定量の商品を最低5年間、納入することが求められる。認定のためには商品のクオリティから企業、または個人の信頼性や適正な価格設定などが重要視されると聞く。「ロイヤルワラント」に認定されると、店先に「ロイヤルアームス(紋章)」を掲げることができるが、そのワラントは5年ごとに精査・更新されるため、一度認定されても5年後には脱落することもある。毎年20〜40くらいの企業等が認定取り消しになるというから、少ない数ではないだろう。
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